かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

嫉妬しようぜ2019

 少し前に思うところあって、ブログ開設日の記事『嫉妬しようぜ』(https://st79.hatenablog.com/entry/20110311/1299811800)を読み直した。
 ……うん。わかりづらそうだね、今となっては。

 これを書いた八年前には、充分通じる記事だと思ったんだけどね。
 今読むと、微妙にわかりづらい気がする。いや、わかりづらいんだろう。
 よし、リニューアルしておこう。
 といってもリニューアルゆえ内容は基本的に以前のままだぞ。

 思わせぶりな書き方は避けてドンといっちゃえば。
「嫉妬もできない人間になるな」
 これに尽きる。

 ひとはどうして嫉妬するのか。
 嫉妬する対象を見下しているからだ。
 もし見上げるような相手だったら、敬ったり憧れたりするだけで、嫉妬はしない。できない。
「アイツ、ホントはオレより仕事できないのに」
 ぐらいに思う相手にしか、ひとは嫉妬しない。
 そういう相手が、でも、自分より厚遇を受けていたら?
 こういう時にひとは嫉妬を開始する。

 仕事の話じゃなくてもかまわない。
 恋愛でもよくある話だよね嫉妬。てゆか、そっちの方が多いかもしれないな。
 恋愛において嫉妬する対象は、必ず「恋愛対象として自分より劣っている」。でなきゃ嫉妬もせずひっそり退くだけだ。自分を今以上みじめにしないために。
 だが、九割相手が勝っていても、一割自分が勝っていれば嫉妬は成立する。
「彼女(彼)には、より優れた自分の方が相応しいのに! きー!!」となる。

 まあ有体にいって、嫉妬には自身への過大評価、自信過剰に因る部分もけっこうある。
 あるんだが、でも、そこが大事なとこだと思うわけよ。
 というのはね。
 嫉妬する者がそれだけ自分を大事に思っている、少なくともそれは間違いのないところだからだ。
 自分の才能に。自分の性格に、容姿に。立ち居振る舞いであれファッションセンスであれ、知識であれ運動能力であれ、どこかしらに「自分が評価できる自分」がある。
 つまり嫉妬をするひとは、必ず自分に関してポジティブな点をもっているわけだ。
 いい方を変えれば、自分を愛している。
 これ、大事なことだよ。
 自分を本当に愛せないとしたら、それは少なくともカウンセリングが必要な状態だ。ひととして不健全な状態に陥っている。
 ひとは自分を愛していないと生きてはいられないようにできてるんだ。

 また、嫉妬する対象をもつということは、比較しているということでもある。
 比較するというのは、まず「他者を他者と認識する」、これがなければできないことだ。
 外界と自分の切り分けができなければ、そもそも比較ができないわけで、当然ながら嫉妬だってできない。
 そんなヤツぁいねー、と思うでしょ? ところがねぇ、これがねぇ。
 よく「オレの常識では」とか言うヤツいたよね。こういうヤツにおいては、かたちばかり外界と自分の区別はついていても、結局自分の世界の方が強力に優先されているので(外界を否定もしくは極端に軽視しているので)、外界を認識していないに等しいんだな。
 重要なのは、余人の能力を自身のそれと(少なくとも自分視点では)比較でき、またその相手への周囲からの待遇を評価できる程度の距離感だ。「オレの常識」は、それが機能していない。
 その距離感がなければ比較が成立しないし、である以上は嫉妬も生じない。
 そしてまたその距離感があることは、他者と共存する上で最低限必要な条件でもある。

 だから、嫉妬するには、まず「自分を愛している」必要があり、もうひとつ「外界を外界として認識できる」能力を備えている必要があるわけだ。
 どちらが欠けても、嫉妬はできない。
 そして双方があれば、必ず嫉妬する局面に遭遇する。
 それが正しいひとの姿ってもんだよ。

 ……という前提があった上で。
 嫉妬を嫉妬として剥き出しにするんじゃなく、自分をより高めるためのエネルギーにしようよ、ってのが話の本題だ。
 人間はどうも好戦的ないきものらしく、ひとりでこつこつやっている時より、競争相手が登場した時にすごい力を発揮するものであるらしい。
 だからわざわざ仮想敵なんてものをヒネり出したりもする。
 もし嫉妬の感情が湧いたのであれば、こりゃチャンスだぞ、ってわけさ。
 手間をかけて敵をでっちあげたりする必要がない。
 嫉妬する相手を、本当に追い抜けばいい。

 嫉妬がどれだけの可能性を秘めているか。
 冷静に考えれば、もし嫉妬する対象が本当に自分より厚遇を受けているのなら、そこにはなにか必ず理由があるはずなんだよ。
 それがたとえ「ヤツの方が顔がいい」って事情だったとしても、理由ではある。
 その理由を引っ繰り返せるだけの自分になろうというパワーに、嫉妬を転用するんだよ。
 闘争の意欲に満ちたニンゲンという種であれば、それはまたとない規模の原動力になるはずだ。顔の造作なんていう曖昧な条件を吹っ飛ばそうなんて意欲、ふつうには出てくるもんじゃない。いうまでもないと思うが、曖昧な条件に基づくものほど否定しづらい。論拠がないんだから論拠を潰すこともできないんだからね。
 それを引っ繰り返そうとするからには、平生からは自分でも予想できないほどの勢いがあるはずだ。いや、ある。
 なにしろニンゲンは、嫉妬で同族他個体を殺すことだってあるんだぜ。
 そんなパワー滅多にあるもんじゃない。(ニンゲンは意外に頑丈なのだ)

 難しいのはその制御。いやもうこれはホントに難しい。
 だが、その制御に向けた力の見返りは、たいがい、ある。

 見返りがないのは、あまりにも自己評価が高すぎてとうていかなわない相手に嫉妬を押し売ったり、自分でそれを嫉妬と認識できずただ感情に振り回されたり、嫉妬ではないものを嫉妬と思い込んでいる時ぐらいだ。
 わりと難儀なのは、「嫉妬でないものを嫉妬と思い込む」で、たとえば百メートル10秒以内で走れる選手に対して「オレは14秒かかるのに! きー!!」っていうようなやつ。
 これは嫉妬じゃありません。単なる難癖です。
 能力のないやつがあるやつに羨望を抱き勝手に劣等感を覚えて、その原因を相手に押しつけているだけ。こんなのは嫉妬とは呼べない、嫉妬じゃないんだよ。
 こういうのを嫉妬だと思ってエネルギー転用をしようとしても、まずたいがい無益なじたばたしかできない。まあ防衛機制(代償)で目的をすり替え、別の世界で達成するという手はないこともないが、それが自分の器をはるかに越えた対象だとどうしようもなくなる。
 ともあれそういう場合でなければ、嫉妬はたいがいエネルギーへの変換が可能で、ゆえにしばしばすごいことができる可能性にもなるわけさ。

 だから、「嫉妬しようぜ」という。
 それは自分が自分を愛している証明だし、主観/客観の切り分けができる証明だし、そしてなによりそれが自分を煽りあげる力になるからだ。
 逆に、嫉妬できない、って状態を考えてみればわかるはず。
 自分に評価を与えていなかったり、他者が見えていなかったり、それとも自己評価が高すぎて他者が全員ゴミだったり……こういうの、まともな状態じゃないぞ。
 そんな状態に陥るな。
 嫉妬できる自分であれ。
 嫉妬をプラスに変換できる自己制御能力をもつ自分であれ。
 健全に嫉妬するんだよ。
 それは必ず自分の役に立つ。

 安易に嫉妬を否定するようなニンゲンはタカが知れている。
 そういうニンゲンになるな。
 若いうちは、外界の情報に振り回されがちにもなるが、それでも嫉妬しようぜ。
 嫉妬さえできない者には、まともな成果なんて、まず期待できないものなんだ。