かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

雑想――骨

 先日ツイッターを眺めていたら、ひとつのマンガが目にとまった。
 フォローさんがリツイートした作品だ。
 成年女性の恋愛を描いた短編。物語の主人公には、好きな男性ができると彼の体臭も好きになるという癖(へき)があった。それが発端となってちょっとしたドラマが始まるわけだが、とにかく“その男が好きなら体臭も好き”という設定が気に入った。
『作者の方は恋愛の根本を鷲づかみにされているなあ』
 と思い、勝手にフォローさせていただくことにした。
 なぜ体臭が恋愛の根本をつかんでいるのかといったら……いや、それは長い話になるので割愛する。要するに恋愛は、そもそも嗅覚のようなごく原始的な感覚に支配される感情なのだ。だが、当地日本においてそういう観点はどうも忌避される傾向がある。そこを敢えてピックアップするというのは、ひと皮以上剥けたセンスだと思う。
 さてそんな具合で、作者の方のツイートが俺のタイムラインにも表示されるようになった。
 当然、その方の手になるイラストが時おり見られるわけで、ここでまた『ぉお!?』というものがあった。フォロー正解。
 なにに『ぉお!?』となったかといったら、骨だ。
 その方はしばしば、肉が薄い女性を描かれる。当然ながらそのからだには、骨が浮いて見える。骨がしっかり描かれている。
 この骨が、なんとも艶かしいのだ。
 いや、もっと素直にいえば、エロいのである。
 骨がエロいのだ。

 これは、特に俺にとっては、かなり稀有な話になる。
 そも女性の艶かしさ、エロさというものは、基本的に肉/脂肪によって紡がれる。
 誰でも知っていることだが、第二次性徴期以降、女性には男性に比して多く体脂肪が備わるようになり、それによって現れるからだの線がいわゆる女性らしさを感じさせる――ということになっている。
 これは、そのからだに子を宿し育む性としての必要に因るという。だから女性らしさとはいうが、根本的には「生物としての雌」の特性といえる。社会的・文化的に組み立てられるジェンダーロールの枠内にある話ではなく、もっとプリミティブな要素。ホモ・サピエンスという生物種の雌としての特徴だ。
 そういう身体的特徴、脂肪を多くまとった肉体に惹かれるというのは、ホモ・サピエンスという生物種の雄には必然といえる話であり、なればこそそれはエロティシズムにも結びつく。然り、エロティシズムは生存の本能に直結するものであって、この場合の生存とは単に個体保存に邁進するだけではなく種の保存も含む。この点において、女性の肉(脂肪)に宿るエロティシズムは、なんのヒネリもない基本のものといえる。
 だから骨にエロティシズムを感じるというのは、些か真っ当な雄ルートから外れた話になる。ことに俺、根本的に脂肪愛好家であって揉めるものなら腹肉や上腕のいわゆる振り袖肉だってよろこんで揉んじゃうという俺においては、ごくごく珍しいことだ。
 しかしその方の絵の女性の骨には、強烈な雌性があった。
 だからこそのエロティシズムである。

 では、骨のどこにエロティシズムを、俺は感じたのか。
 たとえば骨盤の張り出しは、ごくわかりやすい要素だった。
 これもまた周知の話だが、男女において、というより人間という種の雌雄においては、骨盤のかたちがおおいに違う。
 人間の雄にとって骨盤は、単に体躯を支える土台だ。
 下肢と体幹を繋ぎ、脊柱を経て頭蓋骨を支える。また腹部から胸部にかけての内臓群を文字通りに下支えする台であって、その個体の肉体の成立の基本となる。
 が、人間の雌にとっての骨盤はそれだけのものではない。妊娠している時期に、重力に抗い胎児を支える受け皿となる、という役目が加わる。四足歩行の哺乳類が無理やり二足直立の姿勢になったゆえの業のようなものだ。
 従ってヒトの雌の骨盤は雄のそれに比べ幅が広く、上部が大きく開いている。
 またヒトの雌の骨盤の恥骨結合部は、出産の際の産道を確保するべく大きく前へせり出し、それにより真下から見た時には、底部が雄に比べ大きく開口しているのがわかる。
 余談になるが、上が広がった骨盤にはちょっとした活用法があって、つまりこどもを抱き上げた時、骨盤の上端にこどもを座らせることができちゃうのだ。だからこどもを小わきに抱いた時、女性の方が安定しかつ長時間抱いた状態を維持できる。男性がそれを真似ようとすると、腰椎を妙な具合に曲げなければならない。これは姿勢としてかなりキツいものなので、そこそこ大きくなったこどもを小わきに抱こうとしたら、男性は腕力(文字通り)をかなり鍛えなければならない。そんなの女性だって同じだろうというなかれ。腰骨のサポートがまったく期待できない以上、男性は腕の筋力だけが頼りなのよ。かといって腰をヒネって腰骨に座らせると、腰を傷めてしまう。ある程度以上成長した子を男性が抱き上げ続けるというのは、なかなかにしんどい作業なのよね。たのしいけど。

 閑話休題、と書いてから『いや待て今日の話題はまるごと閑話の類なのではないか』と思ってふと悩む。悩むがかまわずどんどん書く。
 要するにそういう具合に、骨盤の上への広がりは、生物種としてのヒトの雌の特徴的な仕様なのだ。
 だから肉が削げた場合、雌の腰には雄よりもはっきりと目立つ骨の張り出しが確認できる。それは時に、腰に尖った小さなツノが生えたようにも見える。
 かの方の描かれた細身の女性には、しっかりとその張り出しが描かれていた。
 これはまさしく雌の特徴なのだ。
 脂肪の沈着同様、その個体が雌であることを主張する張り出しなのである。
 いや、ある意味脂肪よりも強烈な主張かもしれない。雄だって太るのだ、脂肪をまとうことは珍しくないのだ。もちろんその場合のからだの線はやはり雄のものではあって、脂肪をまとったからといって外見が雌化するというものでもないが。いやそういう話ではなく、脂肪は雄でもまとえるし女性でも脂肪が薄くなることはある、しかし骨はそう簡単には変わらない。脂肪が薄くなった結果、雌ならではの骨盤が顕現したなら、それは肉による雌性の主張よりはるかに根源的な雄との差異を語っているとはいえまいか。
 不思議なもので、骨盤に限らずさまざまな部分で雄と雌の骨は違って見える。
 基本的にヒトの雌雄においては雌の方が全体に小作りになっているから、たとえば膝にせよ指にせよ、その骨が露わになってきた時には、むしろ雌の華奢が際立ってくる。そこに雄とはまったく違う構築が現れる。
 それは雄にとっては魅力となり得るはずだ。
 自分と違うということは、ペアリングの認識の根本にあるものだからだ。
 同じだったら番いになる意味がない。遺伝子の交雑は異なる者同士にあってこそより確かな意義を備えるのである。

 かの方の作品においては、指の関節などもかなり強調して描かれることがある。
 一見するとそれは、ごつごつして雌らしくない様子なのかもしれない。だが俺はそこに生命を感じる。生物としての確実な存在を感じる。
 映画『風の谷のナウシカ』で、風の谷に長く住む老体が、腐海からやってくる瘴気に曝されさまざまな労働を経てきた自身の手指を誇る場面があったと記憶する。
 いわゆる“美しい手”ではない。だがその手を、いかつく歪んで節くれだった手を、谷の姫ナウシカは褒め、愛でるという。然り、それは生きてきたからこそそこに在る手であり、ナウシカは手を通してその老体の生を愛でているのである。
 それにおそらくは近い感覚を俺は、かの方の絵に描かれる女性の手指の関節に抱く。
 その絵の女性は生きている、だからこそ関節だってあるし、その関節はしっかり機能してその女性の生を紡いでいる。悲しい時にはめきめきと音がしそうなほど握りしめられたり震えたりしているだろう。一方でうれしい時には、ご機嫌な猫のしっぽがぴんと立つように、関節がありつつもすらりと伸びているだろう。彼女の指はそうして彼女の生を証だてる。関節はそうした表情を表すのに必要なものであり、それをしっかり備えた彼女は、そういう表情、その表情をつくりだす感情を、間違いなく備えている。細かく描き込まれた関節は、その象徴として機能しているのだ。
 話は微妙にズレるが、俺は女性のからだに残る手術痕が好きだったりする。その女性が生きるために必要になった傷痕だからだ。それがあるから、今その女性は在る。そう思うと、手術痕がありがたく思える。もしそれがなければ、その女性は今すでに亡いかもしれない。これをありがたく思わずして、なにをありがたく思えるか。
 その女性の存在に必要だったものは、その女性と同等に愛しいものなのだ。

 そしてさらに俺の妄想は進む。
 その女性が息絶えたあとも、彼女の骨は、彼女が雌であることを主張するはずだ。
 日本は火葬の国なので、亡骸は速やかに火に炙られ、骨もまた小片となってしまう。だがもしそういう様式がなければ、たとえば極端な話なきがらが野晒しになったとしたら、肉は早晩朽ちて骨ばかりが残ることになるだろう。
 そして残った骨はと見れば、尖った骨盤も華奢な肋骨の籠も手指の小粒の骨片も、すべてが生前それが雌であったことを示すだろう。
 死してなお雌を主張し、雌を誇るのだ。
 これがエロティシズムでなくてなんだろう。

 過去に俺が骨にエロティシズムを感じた例といえば、メメント・モリに関連する作品群であり、それらは骨に象徴される死から逆説的にあらわれる生、その生の根本的な営みである個の保存と種の存続のための生殖のイメージから生じるもので、いいふるされたものではあるがタナトスと拮抗するものとして並立するエロスといった類だった。
 だが、かの方の骨のエロティシズムはそれとは違う。生きることそのものとしての骨、なのだ。雄弁に真っ直ぐに雌を主張する骨であり、そこに死の影は、皆無とはいわないが希薄だ。逆説など必要ない。生の力の源なのである。
 そこにエロティシズムを感じなくなったら、人間(という生物)として失格というものだ。剥き出しの生は常にエロティックなのである。体臭がまさに剥き出しの生のひとつの現れであるように、生を支えるための骨もまた、エロティックなものだったのだ。

 ……などということを、その方の絵を見つつ考えていた。
 その方、二宮ひかる氏という。
 どこかで見た憶えがある名だと思って調べたら、あらまあ、『ナイーヴ』を描かれた方だったのかー。読んでたよ持ってるよ。なんで絵柄で気づかなかったんだろう。そういえば、藤井さん(じゃねえだろう藤沢さんだろう)が田崎の部屋のにおいに惹かれる描写もあったよなあ。なんだ根本的に繋がってるじゃねえか。まあでも当時の絵柄では、脂肪の魅力が前へ出ていたよな。骨ではなかった。(言い訳するな)
 俺の記憶もだんだんやばいことになってきてるっぽいなあ。