かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

コーヒーの話

 ぶっちゃけコーヒーの味がわからない。

 と書くとさすがに語弊がありまくるなあ。
 や、おいしいコーヒー知ってます。少なくとも飲めば「これうまい!」とか「泥水の方がマシなんじゃね?」とかね、そういう感想はちゃんと出るよ。
 あまつさえ「これ酸味が足りない」とか「香りが一本調子でつまらない」とか、クソ面倒くさいことを言い出すこともある。そりゃねえ中学生の頃から嗜み始めて一時は手挽きのミルでいろいろ試したりサイフォンやドリッパーも複数揃えてみたりとかね、サイフォンの頃はネルを水に漬けて冷蔵庫保管したりとかね(高校生の分際で何やってんだ)(実際家族から「これ邪魔」とか言われてたよ)、喫茶店に勤務して銘柄豆の一本立てをしてお客さまに供したりとかね、まあそういうことやってきたからね。
 どちらかというと詳しい方だろうと思うんだ。うん。

 でもコーヒーの味がわからない。
 正確にいうと「どんな味のコーヒーが『これぞ!』というものなのかがわからない」なんだよね。
 いわば究極あるいは至高。
 コーヒーを知るひとに出したら必ず「いいねこれ」と言われる、言ってもらえるようなコーヒーってどんなんだろうっていうか。
 別に、飲んだひとが感涙にむせんで「なんてものを飲ませてくれたんだ」と震えるようなものでなくてもよい。だが誰もが「これは違うね」と目を丸くするようなコーヒー。
 それはいったいどんなものなのかが、わからない。

 たとえば用具。
 ざっくりいってドリッパー、サイフォン、エスプレッソマシンの三種類が身近だ。エスプレッソは本来、超細目に挽いた豆に蒸気をぶつけて味を搾り出すものと聞く。当然マシンでなければね。
 さて、どれで淹れるのがいちばんよいのだろう。

 豆の選択や扱いも重要だ。というよりこれはものすごく大切なものだろう。
 どの銘柄をどう使うか。煎りようによって同じ豆でも味は変わる。用具によって挽き方に工夫も必要だ。
 コーヒー屋ではブレンドコーヒーはいちばん安いものだが、本来はブレンドこそ本道だと考える。さまざまな銘柄にはそれぞれ特徴がある。よく知られているのは、ブラジルの苦み、モカの酸味だろう。それらを最適最上のバランスで出したら、下手な銘柄豆のストレートよりよほどうまいはずだし、農産物である豆の年による出来不出来の振れを最小限に抑えることもできるはずだ。ブレンドコーヒーは店の個性の出しどころ。
 なお俺としてはブラジル6:コロンビア3:マンデリン1のブレンドを推したい。
 苦みに振った味。これを紙フィルターのドリッパーで落とす。

 そういえばフィルターも味を変えるぞ。
 基本がネルとして、これはネル自体の本来の質の問題もあるが、管理にも課題がある。紙フィルターは安定して使えるものの、品によっては雑味が増える気がする。エスプレッソマシンの場合は金属製(というよりマシンのパーツの一部)だが、これも管理が要る。つまり掃除が必要だ。気になったことはないが、もしかすると素材になっている金属次第で味が違ってくるのかもしれない。
 用具や豆、豆の状態とも絡むわけで、はてどのフィルターがいちばんコーヒーの“らしい”味を引き出してくれるんだろうか。

 落とし方も難しいんだ。
 一般にメリタのドリッパーは扱い易いという。シロウトでも手軽に入れられるよう工夫されたのがメリタだという話だ。一方カリタは難しいという。穴が三つもあるからすとすと落ちる。落とし加減は薬罐を握る人間の技量に左右される。
 するとシロウトがメリタで淹れたものよりシロウトがカリタで落としたものの方がおいしくなく、だが達者がカリタを使えばメリタを越えることになるんだろうか。
 湯の落とし方にも何種類かがあるようだ。
 一気に全量をドリッパーに注いでしまい、あとはドリッパーに任せるか。
 一定量をキープするよう、最初はするりと注ぐがあとは地味に少しずつ注ぐのか。
 さらにはドリッパーに湯を溜めず、最初から少しずつ落とし続けて、いつも豆の表面が見えるようにするのか。
 注ぐ勢いも問題だ。
 一気に注ぐにしても、勢いよく注いでドリッパー内で豆を踊らせるか。紅茶の場合はジャンピングといって、ポットの中で湯の勢いと熱による対流で葉っぱが跳ねるように振る舞うを以てよしとする、そうだ。コーヒーはどうか。同様にドリッパー内で踊らせた方がよいのか。それとも豆が極力動かないようにするのがよいのか。
 サイフォンだって難しい。
 上の容器がストレートになったやつがあるよね。あれを使って、湯が上にあがったら太いマドラーでがががっとかき混ぜる、って淹れ方を見たことがある。
 一般的には上の容器も丸形で容器の中はいじらないようだけれども、かき混ぜコーヒーは確かにうまかった。だが俺が知らないだけで、丸形でも扱いようによってはかき混ぜを越えるものが落とせるのかもしれない。
 これも豆の種類や煎りよう挽きようによって違うんだろうが、どれが“最も”よいものなのか、皆目見当がつかない。
 なにをどうすれば“最も”になるのか。
 わからない。

 これがですね。
 目指す味、というものがあれば、たぶん問題ないんだろうと思う。
「香りはこんな感じで苦みはこの程度、酸味はこの程度、水色(すいしょく。どっちかというと紅茶の用語だろうね俺は紅茶で知った)は……」という具合に、具体的な到達点があるなら、自然とすべてが決まってくると思うわけですよ。
 でも俺にはそれがない。
 だからそこなりのコーヒーを飲むと、なんでも「これおいしいね」になってしまう。
 たとえコンビニのひゃくえんコーヒー(では既にないが)であれ、ホテルのラウンジのごせんえんコーヒーであれ(っつってもそういうのはもう十年以上飲んでないな)、「おいしいね」(もしくは「クソ汁ですかこれは」)になっちゃうわけよ。
 結局これって、味がわかっていないんだろうと思うのね。

 いろいろ印象に残ったコーヒーはあるんだ。
 白眉は『エチオピア』の先代が淹れてくれたトラジャのストレート。
エチオピア』は神田駿河台にあるカレーの店だが、開店当時は先代が趣味の果てに始めたコーヒー専門店だったんだよね。カレーの店になったのはあとを継いだ二代目(たぶん先代の息子さん)なのではないかな。
 で、その頃――『エチオピア』の開店当時、今からもう三十年以上前のことだが、ふつうに出されるブレンドコーヒーが恐ろしくおいしくて通いつめ、先代とも直接に話すようになることができて、すると「じゃあ本気で淹れましょう」って感じになってもらえて、目の前で時間をかけて一杯を立ててもらえた。そう、こうなると「淹れる」ではなく「立てる」の世界に入ってくる。
 これがもう、ね。
 なんで水がこんなすごい飲み物に変貌するんだ、という具合でね。
 あれはなあ「芸」だったよなあ。
 ほかの誰かに真似することは到底できない類だったと思う。
 ドリッパーを使い、1リットルの小さな薬罐(たぶんアルマイト)を使い、しかしその薬罐は注ぎ口の部分をペンチでいじってあって、なんでも一滴ずつ確実に等量を落とせるようにしたとかで、曰く「大地に雨が染み込むように」急がず焦らず抽出するのが重要ということらしい。(のちに同じ台詞を武道家の藤岡 弘、がTVで言っていた気がする)
 一杯落ちるのに20分ぐらいかかったが、待った甲斐はありまくりだった。いや、あれがたったの20分で、というべきか。
 それくらいすごい飲み物だった。

 じゃあ具体的なビジョンはあるんじゃないか、ってことになりそうだが。
 でもコンビニコーヒーもラウンジコーヒーもうまいのよ。それぞれにそれならではのうまさがあり、それぞれはやはり否定できないものなの。
 究極の、あるいは至高の、「これぞ!」の一杯がわからない。
 どう選べばよいのか、わからない。

 まあそれでもざっくりいえば、エスプレッソは好きじゃない。
 若い頃はデミタスカップでちゅうっと飲んで「これだねえ」とか言ったりしていたもんだが、今はね。なんかこう水色が濁っててね。味もキツ過ぎてね。まあ当たり前か、豆ぜんぶが入ってるんだもんな。
 ドリッパーの方が好きだ。
 自分で淹れる時は、といってもだいたい毎日淹れているが、ドトールで売られているひとつ穴のプラスティック製ドリッパーを愛用している。
 こいつはコーヒーの落ちる穴が独特で、ドリッパーの横(といってもだいぶ底の方なんだが)にまるで煙突のようににょきっと突っ立っている。どうやらこの構造のおかげで、ゴミ成分がドリッパーの底に溜まり、雑味を下へ落とさない模様。
 横面のリブはかなり高めの設計で、溜めるというよりはどんどん落とす狙いがあるようだ。つまり豆の味をとことん引き出すというよりは、ごく表層の部分を掬い取るような構造であるらしい。
 お手軽にレベルの味になってくれる。一気に湯の全量を注いで、あとは放置ですむのも好ましい。メリタで淹れる場合はドリッパーの底に残り豆がこんもり残るのがベストらしいが、こっちはサイドに均等に、ドリッパーのかたちに残るのがよさげだ。
 まあでも、できるのは『エチオピア』先代のあの飲み物とは別のものだけどね。

 というわけで、コーヒーの味がわからない。
 なにがベストなのかがわからない。決まらない。
 そんで今日もそこらのカフェ行って、ずびずびコーヒー啜りつつ校正作業やったりするわけですよ。
 まあある意味、「こうでなきゃダメだ!」って縛りがない分、気楽なんだけどね。
 でも憧れるんだよな。
「これがコーヒーだ!」
 ってカッコよく断言する姿にさ。