かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#6】闇狩り−09

(承前)

 嫌なにおいがするかと思ったが、逆だった。むしろ甘く、そそる香りをしていた。由衣のからだがそれを求めていることが明白な、好ましい香りだった。
 口に、入れた。その瞬間にそれは綿菓子のようにふわりと溶け、するりと喉の奥に流れ込んでいった。途端に、全身にまで広がる、痺れるような味。しみわたるような味。
 おいしい。なんておいしいんだろう。
 けれど由衣には、そのおいしさが、悲しかった。悔しかった。
 それを味わえるということ。それを歓迎してしまうということ。それはまぎれもなく、自分がすっかり違うものになってしまったことの証なのだ。ひとの食べ物では満ち足りず、自身を維持することができない、別のもの。それになってしまったという、実感。その味には、そんな意味があるように思えた。
 涙が、出た。
 涙を流し、しゃくりあげながら、由衣は再び手を伸ばした。
 青黒い塊を千切り、口に運ぶ。泣きながら由衣は、それを繰り返した。
『それで、いいんだ』
 美弥の、柔らかな声が聞こえる。
『どの道、もう元には戻れないのさ。このからだのための作法に、従うしかない。あたしはもう半分、喰った。これでまたしばらくは……多分、半年ぐらいは、喰わずになんとかなるだろう。同族の心は、腹もちがいいからな。残りはあんたが喰え。そうすれば、少しでも長い間、ひとに迷惑をかけずに済む』
 由衣はただ、喰べた。ひどく惨めな気がした。けれど、喰べた。あの男……いいことのない人生の果てに心をこれほど歪ませてしまった男が、哀れだった。だがそれを喰ってしか永らえられない自分もまた、惨めだった。
 やがて目の前から、塊が、消えた。

 突然、五感が戻ってきた。
 由衣は、膝立ちになって美弥にしがみついている。美弥の手の感触が、背中に当たっている。血に濡れた服の感触が、べたべたとして気持ち悪い。
 美弥が、その世界──悪魔の戦いの場であり、食事の場でもある世界を、閉ざしたのだ。
「見てみな」
 美弥に言われて、由衣は指さされた方を振り返った。散々に荒れた室内だ。
 暴力団員の血肉で汚れているのは変わらなかったが、けれど。
「……あのひと……あの男のひとのからだは? 青くて大きな、怪物は?」
「ないだろう。そういうことなのさ。あたしらの肉体は、心が生み出す、かたちのある幻なんだ。だから、心がなくなれば、消える。それが鬼、いや悪魔の最期なんだ」
(……いなくなったんだ……あのひと)
 そんな実感があった。
 男は、消えたのだ。悪魔という心だけの生き物となり、その心を喰い尽くされて、丸ごと消滅したのだ。
 そう、消滅。死という言葉が備える荘厳な印象がまるでそぐわない、ただの消滅。
 悲しまれることもなく。惜しまれることもなく。悼まれもせず。
 ただ、消えた。
 由衣にはそれが少し羨ましく思えた。
「ところであんた、さっき、あたしに何か報告したいと思ってたらしいが」
 急に言われて、由衣は戸惑った。
「何かがわかったとか、見つかったとか」
 由衣は、思い出した。
 そうだ。わかったと思ったのだ。見つけたと思ったのだ。美弥のこと。自分のこと、自分のするべきこと……。
「なんでもありません。気のせい……でした」
 実際、再びわからなくなっていた。なぜあの時そう思ったのかすら、今はわからない。
 結局のところ、自分はなにも知ってはいなかった。自分自身のことさえ、わかっていなかった。悪魔が生きるということ、戦うということの実際を知った今では、由衣の気持ちは再び振り出しに戻ってしまっている。
「そうか。うん。それでいい。……さて、あたしらは逃げるとするかね」
 美弥はしゃがみ込み、由衣の顔を覗き込んだ。その顔は、普段の美弥の顔だった。あの笑み──あどけない笑みが、その頬に湛えられている。
「……逃げる? なんでですか?」
 問い返す由衣に、美弥は視線を外に投げて顎をしゃくった。
「聞こえるだろう?」
 言われて由衣は、初めて気づいた。サイレンの音が、近づいてきている。
「けっこう派手にやっちゃったからね。そこいらの住人だか勤め人だかが、呼んだんだろう。面倒に巻き込まれるのは、御免だ」
 言って美弥は、由衣の両脇に手を差し込んで持ち上げ、立たせた。
 あれ? と思ったのは、その時だ。
 左腕が、ある。男の力をまともに受けて、消滅してしまったはずの左腕が、元に戻っている。
「あんたが“左腕がほしい”って思ったんだろう。だから生えたのさ。あたしらの肉体なんてのは、その程度に簡単なもんなんだよ。
 その割に、本当に剥き身の心だけで漂っていられず、器がなきゃいられないってのも、これまたずいぶん理不尽な話なんだが」
 また美弥が先回りして、答えた。
 不思議な気分だった。いったい肉体というものは、何なのだろう。ひとだった頃には、それは、失われたら戻らない、かけがえのないものだった。時には心よりも大切な、護るべきものだったはずだ。
 それが、こうも安易に取り返せる。
 だとしたら……。
(今、かけがえのないもの、といったら?)
 答えはわかっていた。だが、それをはっきりと確かめることは、ためらわれた。
「お互い、この恰好で下まで降りて歩いて逃げるわけにも、いかないねえ」
 美弥は、由衣の思うことに構わず、気楽な口調で言った。
 由衣は言われて、自分と美弥の姿を改めて眺めた。
 美弥は、ぼろぼろになった黒いワンピースの切れ端を体に巻きつけたような恰好だ。それはあるいは、全裸よりもエロティックかもしれない。由衣は、半分が真っ赤に染まった白のポロとキュロット。左の袖は、裂けてなくなっている。確かにこの風体で街を歩いたりしたら、目立つ目立たないの域を越えて、即座に捕まってしまいそうだ。
 サイレンはもう、足元にまで辿り着いている。
「あんた、鳥とかにはなれるかね? 翼を生やしたことはあるって言ってたが」
 美弥が問う。
「……鳥は、わかりません」
「ま、やるっきゃないだろ。まずは服、脱ぎな。置いてくわけにはいかないからね。なに恥ずかしがってんだい、早くしないと連中が上がってくるよ。そうそう、それでいい。そいつを、これで……よし。これでいい」
 美弥は由衣を裸にさせると、自分も服を脱ぎ、ふたり分の衣類……靴下や靴に至るまでを、自分のワンピースの残骸でクルクルッと包んだ。
「こんな風だ。やってみな」
 言った途端、美弥の姿がぼやけ、次にかたちを得た時には、鳥になっていた。先の曲がった短い嘴と、力強い爪。猛禽類独特の研ぎ澄まされた迫力が、その総身に漲っている。かなり大きい。翼のさしわたしは、一メートル半以上にもなるだろうか。
 炎のような色の羽で覆われたその翼を、軽くばさばさと動かして具合を確かめ、満足げな素振りを見せた鳥は、首を傾げて由衣を見上げた。その目は、美弥の目──黒く深い、美弥の瞳だった。
(……鳥……鳥に)
 一心に念じる。全身に訪れる甘い痺れ。気が遠くなる快さ。
 そして由衣もまた、白い鳥になっていた。
『ほほう、巧いもんだ。あんた、才能があるのかね。それとも、やっぱり強力なやつをかっぱらったのかもしれない。だとすると、あんたは……』
 美弥の声が流れ込んでくる。
『おっといけねぇ。もう、すぐそこまで来てるらしいぞ。逃げるよ』
 美弥は言い、今し方まとめた荷物を足の爪で掴むなり、強く羽ばたいて体を浮かせた。そのまま、さっきの戦いで由衣が壁に開けた穴から、器用にその身を外へと踊らせる。
 慌てて由衣も、後を追う。
 二羽の大きな鳥は、そのビルから飛び出し、夕闇の空へと消えていった。
 十数人の警官たちが部屋に辿り着いたのは、そのほんの数秒後のことだった。

(了)