かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#4 僕のこと。】-04

(承前)

 エレベーターはやがて動き出し、あっという間に150メートルを昇りきって、展望台に着いた。そこから中をぐるっと歩き、階段を登って、特別展望台へ向かうエレベーターに乗り継ぐ。
 さっきと同じようにエレベーターにこっそりと滑り込み、僕たちは塔のてっぺんにまで着いた。
「ここは、高さが250メートルある。天気さえ良ければ、はるか筑波山まで見えるのだそうだ。当然、東京の街並みはほぼすべて見渡せるようなものだ」
 田野さんは、いろいろなことに詳しい。
「だが、まだ見るのは早い。もう少し待ってくれ。それまで、話の続きをする。ただし、ひとが周囲にいるうちは、キミは声を出してはいけない。我慢してくれ」
 僕は頷いた。
 僕は美春に導かれるまま、内側の壁際に座り込んだ。右隣に美春が、僕にぴったりからだを寄せて座る。左には田野さんが立っている。
「どこまで話したのだったか……そうだ、“ひとはそれぞれ、そもそも繋がったものだ。だが現状では、それが分断されて個になっているように見える”というところまでだったか。それでだね、マサフミ……」
 そして田野さんが話し始めたことを、僕はずっと忘れることはない。
 それは、こんな話だった。


 そもそも感覚というものは、どうやってできてきたものなのだろうか。
 肉体を考えてみる。肉体にはたとえば、味覚という感覚がある。人間は(というより日本人は)五味というものを感じ分けるのだそうだ。すなわち甘・酸・鹹・苦・辛、甘さ・酸っぱさ・塩辛さ・苦さ・辛さの五種類だ。
 これらは、肉体の維持に必要な要素を印象としてまとめたもの、と解釈されている。
 甘さは炭水化物、つまり肉体を動かすためのエネルギーの味。酸っぱさは多くの場合、傷んだ食べ物の味で、即座に吐き出すべき危険性を含んだもの。塩味はミネラル、苦さは毒、辛さは実は味ではなく口の中の温点が感じ取る熱感で、やはり肉体を損なう危険性を孕んだもの。
 それらを、必要なら積極的に摂取し、危険なら即座に排除するために、味覚という感覚が生じたと説明するわけだ。
 だから甘味や塩味には好感を、その他のものは基本的にはその反対の感覚を受け取るように、肉体はできあがっている。本来なら危険なはずの味も取り込み味わうようになったのは、人間という生物の貪欲さの表れである。
 だがそれは、本質を微妙に見失っているのではないか。
 肉体からの好感を得るために甘味という印象が準備されたのか。甘味が好感を得られるから採用されたのか。たまたま好感を甘味として感じ取る仕組みになったのか。
 論理的に考えるのなら、好感を感じられる味に対して甘味という名が与えられた、とすべきなのだろう。だがそれが甘味という感覚として成立した理由は、どこにあるのか。
 甘味が好感なのか、好感だから甘味なのか。科学は答えを出してはくれない。それは科学の手に余る問題だからだ。
 同様に、精神的な部分においては、なおさまざまな問題がある。
 感情はなぜ生じるのか。たとえば恐怖。これは基本的に、自分自身という生体に対して何らかの危害が加えられそうな時、特に生命活動を損なわれそうになる時に感じるものだという。だが、特に人間は、直接に肉体に危害を加えられようもない状況にこそ、より強烈な恐怖を感じる。そういう恐怖はどこから生じるのか。
 心理学はそれを、自身の精神への危険性として説明してくれる。人間は精神活動をもって人間となる、その精神を危うくされることは生体を傷つけられるのと同じことだ。だから精神の平衡を乱そうとするものには恐怖を覚える。自身を守るため、早めにその危険から遠ざかるべく、危険信号としての恐怖を覚えるようになっているのだ、と。
 だがそれは、なぜ恐怖というかたちを得たのだろう。それとも、危険を察知することを恐怖と呼ぶべきなのか。
 ここでも、甘い=好意と同じような疑問が生じている。恐怖=危険、この等式の右辺と左辺はどちらが先に生じたものなのか。
 結論をいえば、誰か――それは人間とは限らない――がまず甘さを感じたのだし、誰かがまず恐怖を感じた。
 そしてそれがすべての精神――というよりは“心”、より原始的な感覚の集合体――に影響を及ぼしたのだ。
 では、それを最初に感じた誰かから、なぜすべてにそれが行き渡ったのか。
 それはつまり、心というものが互いに、それだけ強固な繋がりを備えているからなのだ。
 いや、個々に独立したものとされる心は連結しあって全体でひとつの構築物になっており、実際には独立してはいない。
 入力される情報の違いによって、ひとつずつの末端はそれぞれまったく別のかたちを備えているように見えるが、その根底には常に同じ仕組みが備えられている。そしてそれは、基本的に、その時存在するすべての心の総和として存在する。
 だから個々の心、ひとつずつの心は、同時代にある心すべてと、ほとんどのパーツを共有している。
 そのパーツとはたとえば、五味や痛覚などの肉体に由来する感覚と、それへの反応のかたちであり、また喜怒哀楽の基本的な感情や好悪、愛憎といった情動の多くである。だから心というものは、本質的にすべてがほぼ等質と見なしてよい。
 現象の上では、同じ情報や刺激に対し、しばしば正反対の反応を示す心があるように見受けられるが、それはあくまでも表面的なものに過ぎない。
 ある外的な情報が、その心の内的な情動を引き起こすまでに、何段階の、どんな手順を経るかによって、表面上の反応の差がもたらされるだけだ。それは、最終的な情動を喚起するスイッチが異なるだけと言ってもいい。基本的な感情そのものは、すべて共通なのだ。
 だが、だからといって、すべての心が完全に同一というわけではない。
 どの心にも、実は、ひとつ以上の特別な要素が含まれている。
 そしてその要素も、すべての心に共有されるのだ。
 では、どの要素がその心特有のものなのか、わからないではないか?――然り。ある心が特別に含んだ要素は、その心が存在する限り、その心に由来するものだとはわからない。
 そしてそれは、その心が失われてしまった時、初めてそれだったとわかるものなのだ。
 その通り。それがマサフミの感じる“アレ”だ。
 マサフミの伯父は、マサフミの伯父だけのものを、その心に備えていた。それはマサフミの心に、他のひとびとの心に共有され、あって当然のものとして受け入れられていた。
 だが伯父本人が亡くなった時、その心の消滅とともに、その要素は当然、消えた。それと同時に、すべての心に伝播していたその要素も消えてしまった――無くなったのだ。
 祖父も然り。友人も然り。それぞれが備えていた特別の要素は、その心の消滅とともに失われてしまった。そしてそれはおそらく、二度と得られることがないのだろう。
 だがすべてのひとびとは――いや、今となってはほとんどのひとびとは、失われたことを感じない。それは、主体であった誰かの心を、ひとびとが直接に感じることがないからだし、膨大な数に達する心のひとつずつにまで関心を払うだけのキャパシティがないせいでもあるだろう。
 また、生涯を通じてその特別の要素に触れることなく過ごす場合も少なくない。なぜなら、それら個々に特別な要素のほとんどは、取るに足らない程度のものだからだ。
 ところが、それを敏感に感じ取る心、というものが現れた。
 マサフミの心がそれだ。
 これまで、そういうセンサーを“個としての特別な要素”として備えるものは存在しなかった。そういう要素が生じるということ自体、想定されていなかったといっていい。
 だが、それは生じた。
 今はまだそれは芽に過ぎないが、やがてひとつの能力として確立する可能性がある。看視が必要になる対象といえよう。
 ではなぜ看視が必要になるのか?
 もう一度言おう。心はその根底に、常に同じ仕組みを備えている。ではその仕組みは、どこに由来するのか。
 たとえば喜怒哀楽。これらは、個に特有の、特別なものではない。そして、もしこれらのどれかが欠けてしまったなら、心の機能は著しく損なわれてしまう。それを心と呼んでいいものかどうかすら、わからなくなる。
 だからそれらは、固定されている。
 では、どのように固定されているのか?
 最初にそれを――喜怒哀楽の感情を――感じた者の心の、その部分だけが取り上げられ、保全されているのだ。
 それら保全されたものを、普遍という。
 心の存在に関して必要と考えられる、あるいは心の維持に関して重要と思われる、いくつもの基本的な要素。それら普遍と呼べるものは、もっとも初めにそれを感じた者の心を維持することによって、今あるすべての心に供給されているのだ。
 マサフミの携えている要素、個々の心の独自の要素を感じ取りその消滅を知る能力というものは、かなり特殊なものだ。あるいは新たな普遍と認めるに足るものかもしれない。
 もしそうであれば、それは失われる前に保全される必要がある。ゆえに看視の必要がある。(もちろんそれが普遍たり得るか否かを見極める必要もあり、そのためにも看視は必要である)
 では、誰がそんな行為を、つまり普遍の選別と保全をおこなっているのか?
 さすがにそれは、わからない。結局のところ、それは知の及ぶものではないのだろう。
 それを神と呼ぶのもいい。法則と呼んでもいい。ただ、説明してもしきれないものが我我の外側の世界にはあるということを、人間は自覚するべきなのかもしれない。
 そして、では、どのようにして普遍は維持されているのか?
 これは私には少しはわかる。なぜなら私自身=デンノサンが、そういった普遍のひとつだからだ。ミハルもまた同様。ミハルも普遍のひとつだ。
 普遍は通常、物理的ではない空間に休み、心に干渉している。カナシミであれヨロコビであれ、常に在り続ける心のみのものとして、和をなすすべての心の輪に加わっている。
 普遍は時に使命を与えられ、休眠から解かれる。そしてたとえばミハルのように、また私のように地に降り立ち、作業を遂行する。
 使命は、我々に直接「この作業をせよ」というメッセージそのものとして送り込まれるが、それを送り込んでくるのがなにものであるかは、我々の理解の及ぶところではない。
 以上が心――個々の世界の構造の実際であり、そうして生じたすべての小さな世界が組み合わさり絡み合って、全体の世界を構築している。
 そうして生じた世界全体の構造は、緻密なモザイクにも似たものになっている。いや、今風にいうならフラクタル構造というのがふさわしいのかもしれない。
 一見は孤立したように見え、けれど実際は相和しひとつの構造をなす心は、総体としてひとつのかたちを備えている。これを細かく見ていくと個々の心になるが、その個々の単位としての部分を見ても、全体のそれと同じ構造がある。個のレベルをさらに細分化し、単一の感覚のみを取り出しても、それはやはり同様の構造を備えている。
 ひとつがすべて。すべてがひとつ。そうしてできあがった緻密な構造を、我々は心と呼び、それが世界を世界たらしめているのだ。

(続く)