かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【Ringo the Wight/#1-02】

(承前)

 男は、自分の右手首を確かめた瞬間、遠く離れたリクにもわかるほどに、目と口をぱかっと大きく開けた。その素っ頓狂な顔を一秒ほど維持した後、男は音がしそうな勢いで口だけを閉じ、ビシッと正面を向き直すなり、再びせっせと歩き始めた。
 男が、あっという間にリクたちに近づいてくる。そして、ほんの数歩手前まできた途端、くにゃっと進路を歪めて、リクたちを避けようとした。
(おぉっと)
 見られている――このまま行かせるわけにはいかない。リクは半歩横へ踏み出し、男の進路を体で塞いだ。
「ちょっと待ちなよ、おっさん」
 リクが声を出すと、男はシャキッと足を止めた。この男、どうもなにか、ぎくしゃくとしている。歩き方にしても、腕時計の確かめ方にしても、そして今の止まり方にしても、滑らかさに欠けている。なんといえばいいのか、こう、唐突なのだ行動が。あるいは、目の前で展開しているカツアゲに怯え、身を硬くしているのかもしれない。
「黙って行く気かよ、あんた」
 リクは腰を低く落とし、下から覗きあげる姿勢になって、凄み口調で言った。
 もちろん、わざわざ腰を落とさなくても、小柄なリクは最初から見上げるポジションにある。だがそこはそれ、脅しをかける時には脅しをかける時なりの作法というものがあるのだ。
 リクに凄まれて、男は、眉間にくっきり深い皺を寄せ、太い眉を、へかっと八の字に下げた。見れば、薄い唇もへの字に歪み、いかにも困ったという表情になっている。眉に引きずられた目も含めて、∧の三段重ねといった顔つきだ。
(なんだよ、こいつ。やっぱ怯えてやがるのか? デカいナリして、情けねえヤツだな)
 どうやら“収入”を増やせそうだ。リクはことさらに脅す口調になって、言った。
「そんなツラしても駄目だぜ。見たんだろ? 俺たちのことを、よ。だったら、わかってるよな? ただ行かせるわけにゃいかないんだよ、向こうのおふたりさんの手前も、よ」
 脅し方には、相応の年季が入っていた。けれどそれも、まだまだ完全にリク自身のものにはなっていない。どこかに、無理をしているような雰囲気がある。
 それは、幼さゆえに経験が不足しているから、という理由によるものなのかもしれない。けれどあるいは、リク自身がまだかなり、こういう“商売”と、そのやり方への抵抗なり疑問なりを抱いている、ということなのかもしれない。
 とはいえリクの、カツアゲ屋としての作法自体は、一人前以上のものといえた。
 たとえば、脅しつけながらも直接には手を触れない辺りが、なかなかに慣れている。直接手を触れたら、それだけで暴行の罪が成立する、ということを知っているのだ。
 この街で、暴行の罪は重い。金品を脅し取るだけのカツアゲよりも二等ばかりのクラスアップで、パクられた日にゃ少年といえども三年は帰って来られない。
 なにしろ街のあちこちには、常時作動のアイデンティフィケーション・カメラ=ICが据えられている。実際には市民の行動を丸ごと記録しているものらしいが、一応の名目は防犯用だ。リクたち毒虫少年団は、それに逐一、証拠を切り取られているというわけだ。
 その画像がすべてを左右する。ただカツアゲするだけなら、たとえパクられても『合意の上で小遣いをもらった』という言い抜けもできなくはない。が、手を触れれば、そこまで。リクはそれを充分に知っているから、男に触れないのだ。
「ほら」
 リクはてのひらを上に向け、にゅっと突き出した。行きたいなら行かせてやってもいいが、出すもん出して行きなさい、という仕種だ。
 男は、∧三段積みの顔のまま、はふー、とため息をつき、言った。
「文無しだって言っても、聞いちゃくれないんだろうねえ」
 あっけらかんとした口調。焦りとか危機感とか、そういうものがまるでない。今までの状況を鑑みるに、どうも一人前のおとなには大事なものが――手短にいえば知恵が、かなり足りなさそうに思える口調だ。声は、悪くない。体格のわりに太く、通りがいい。だがそれも口調のせいで、かえって間抜けに響く。
「みんな最初はそう言うぜ」
 リクは手を突き出したまま、ニヤリと笑って見せた。こういう時は、ナメられたら負け。余裕を見せること、できるだけふてぶてしく見せることが肝要だ。
 が、男は、リクのそんな思惑をいっかな気にしない風で、淡々と言った。
「まあそうだろうねえ。でも俺は、本当に文無しなんだよ。気車にも乗れない。おかげで、昨夜の宿からここまで、ずーっと歩いてきたぐらいでね」
「冗談よせよ。恰好見りゃわかる、あんた金持ちじゃなくても文無しじゃねえよ」
 そう、確かに文無しには見えない。
 まず、着ているジャケットが、豪華過ぎる。
 天然素材の革製らしい。それも、本場地球産の牛の革、という感じだ。しかも、かなり年季が入っている。元は漆黒だったろう表面は、長い時間を経た革らしくこすれ削れて、ところどころにザラついた砂色の地肌が顔を覗かせているし、そうでない部分も青みがかったグレーに変わっている。これだけの風合いが出たジャケットは、金があったとしてもそう簡単に手に入るもんじゃない。
「ところがこれが、本当に文無しなんだよ。今だって、仕事をもらいに行くところでね。採用が決まったら、とりあえず今日の晩飯の金を前借りしようと思ってるぐらいなんだ」
 睨み上げるリクに、けれど男は、相変わらず間抜けに答えた。
(……なんなんだよ、こいつ)
 リクは苛立ち始めていた。自分が空回りしているようで、落ち着かないのだ。
(ここはひとつ、きつく攻めてやらなきゃ、かな……)
莫迦も休み休み言えってんだよ!」
 リクはいきなり声を荒らげた。
「今日び、どこのオフィスがそんな景気のいいことやるもんかっ。だいたい、採用されなかったら今晩の飯はどうするつもりだよ!? とっとと出せよ、でくのぼう!」
「でくのぼうとはまた、参ったね。飯……飯は、採用されなかったら、また抜くしかないだろうねえ。そういうのは今、一番考えたくない状況なんだが……あーっ!?」
 男は素っ頓狂な声をあげた。視線はまた右手首の時計に向いている。
 その声に驚いて、他の毒虫少年たち――妙な男はリクひとりにまかせて、血統書つき青年たちを総出で囲んでいた連中が、一斉に男を見た。
「頼む、通してくれないか。もう面接の時間なんだよ、すぐこの先なんだよ。今日また仕事をもらい損ねたら……」
 言った途端に、厚い革のジャケットの奥から、ぐぎゅる、と音がした。
 そのあまりのタイミングの良さに、男自身も驚いたらしい。男は、言葉を途切らせてしまった。
 気まず過ぎる緊張が満ちる。男は、集中した視線をぐるりと見回して、言った。
「……つまり、そういうことなんだ」
 ぶ、と、リクは思わず吹き出してしまっていた。リクのまとっていた毒虫の雰囲気が、一瞬、途切れる。リクはそして、ほとんど反射的に訊ねていた。
「マジ? あんたそんなに参ってんの? いつから飯食ってねえの?」
「……二日ばかり。いや、その。それぐらいはよくあることなんだよ、俺には。だから全然平気だ、平気……なんだが……」
 ぐきゅるる。再び腹が鳴る。
「さすがに今日一日歩き続けたのが、かなり響いているらしくは、あるなあ」
 少年たちは、もう全員が男にすっかり注目していた。その隙に、カモられかかっていた青年たちが、こそこそ逃げだそうとしている。
「とにかく、通してほしいんだ。もう目の前のはずなんだ。ほら、ここなんだ。マルベス会計事務所。キミらこの辺の者なら、看板ぐらい見たことがあるはずだろ?」
 男はそして、懐にいきなり手を突っ込むと、何かぺらぺらしたものを妙に素早く取り出し、リクの前に突き出した。
 リクは無防備にそれを覗き込むなり、ぎゃはは、と遠慮も会釈もない笑い声をあげた。
「こいつ莫迦だよ、ホンモノだよ! 紙の地図なんか持って歩いてやがる! おまけにマルベス会計事務所だって!? どうしようもねえ!」
 男の表情が、にわかに曇る。
「え? それって、どういうことだい?」
「教えてやるよ、特別にな。そのマルベスなんちゃら事務所ってのは、つまり、フカシ屋のマーベリック親父の仕業だったのさ。親父、求人出して、集まった連中から寸借やって逃げようって腹だったんだ。
 ところがマーベリック、今日の昼頃にはそれが司法局にバレてね。とっくに連れてかれちまった後さ。KT持ってりゃエリアニュースですぐわかっただろうに、紙なんか見ながらトボトボ歩ってっからいけねえんだよ」
「……本当かい?……おい……」
 男は、その長身をくたくたっと折りたたみ、その場にしゃがみ込んでしまった。
「また晩飯が……いや、もう晩だ朝だといってる場合じゃない。飯。飯が逃げた、また逃げたよ。どうすんだ俺。社宅有ってことだったから、宿だって引き払っちまったぞ……」
 ぐしゃぐしゃっとしたブラウンの髪に両手の指を突っ込み、がりがりと掻き回す。その様子は哀れを通り越して、鬼気迫るとさえいえた。毒虫少年たちはただ呆然として、男の狼狽ぶりを見ている。血統書つき青年たちは、もうしっかり逃亡済みだ。
 ひとしきり髪を掻きむしった後、男はゆらりと立ち上がった。キリキリ歩いていたさっきまでの生気は、まるでない。動作もなにか、ゆっくりしている。幽霊めいた影の薄さと、その緩慢な動作が、男の周囲にいわく言いがたい不可触のムードを作りだす。
 男は、ふらぁっと向きを変えた。そして、今来た方向へ、ずるずると歩き始めた。
「お、おい……」
 リクは思わず声をかけた。男はまるでそれが聞こえないように、背を丸めてただずるずると歩いてゆく。
「……おい、おっさん。あんた、飯、食いたいのかよ?」
 飯、と聞いた途端、男の行動にしゃかしゃかが戻った。
 唐突に首をひねり、リクを振り返る。
 無言で、リクを見る。その目は爛々と輝いて、まさに飢えた獣の如し。
 その勢いに気圧されて、リクはぐらりと上体を揺らしてしまっていた。一瞬ではあれ、男の目には確かに畏怖するに値する力があったのだ。
 リクは、ぐ、と息を呑み込みながら、けれど一瞬でも畏怖した自分が悔しくて、ことさらに荒っぽい声音で言った。
「く……食わせてやっても、いいぜ。あんた、けっこう面白そうだ。なんだったら、ちょっとの間、寝場所を都合してやってもいい。とりあえず、ほら。これ、やるよ」
 リクはポケットを探り、指先に当たった小さなものをつまみ出して、男に投げ渡した。
 男がそれを片手で受け止め、その手の中を覗き込んで、目を丸くする。
「今はそんなもんしか――飴玉ぐらいしか持ち合わせはねえけどな。もっとしっかりしたもんを食わせてやっても、いいんだ」
 男の顔がいきなり、ぱあっと明るくなった。
「ほ、本当かい? わあ、わあ、わあ、嬉しいなあ嬉しいぞう。食わせてくれるって? 泊めてくれるって? いやあキミいいやつだ、友達! そう友達だな、うんそうだ、そうに決まってる。俺たちきっと、前世から約束されてた友達に違いないんだ! ああ、頼むとも、頼む食わせてくれ。さっそく連れてってくれ。どこだ? 飯屋どこだ? いやキミんちに連れてってくれるのか? えぇいどっちでもいい、さあ早く、今すぐ! 行こうぜほら!」
 長い脚を蹴飛ばすように繰り出しながら、男は大股でリクに歩み寄った。さっきとはまた別の迫力に圧倒されてリクはたじろぎ、五、六歩もあとずさってしまっていた。

(続く)