かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【Ringo the Wight/#1-03】

(承前)

「……しかし、あんた……。本当に飢えてたんだなあ」
 リクは呆気にとられて男を見ていた。
 小汚い丸テーブルを挟んで、リクと男は向かい合って座っていた。このテーブルはだいぶ前、経営者が夜逃げしたらしい会社から拾ってきたものだ。
 男の前には、パンやらハムやら、得体の知れない缶詰やら――もちろんただフタを開けただけで、中身を別の器に移すなんて気の利いた技は施されていない――が並んでいる。
 男はそれを、マナーもへったくれもなく、次から次へと口の中へ投げ込んでいた。
 その動作には、澱みも躊躇もない。男は、ここがリクの部屋で、目の前にリクがいるということさえ忘れてしまったのではないかと思えるほどの勢いで、ひたすらに食っている。
 そう、ここはリクの部屋だ……といっていいものなのかどうか。住む者がいなくなっていた汚い小部屋を見つけて勝手に住み着いた、というのが本当のところだった。
 この辺りには、意外にそういう空き部屋が多いのだ。
 管理は市がおこなっているのだが、なにしろ戸数が多すぎるし、住人の流動も激しい。ことにこの辺りは、新しいせいで特に人の出入りが多いから、もはや市のファイルにも正確な部屋数と居住世帯の記録はないだろう。だから、勝手に住み着き水道やらなにやらを使っても、請求書ひとつ届いてはこないのだ。
 もっとも、請求書が届いたところで、どうするでもない。支払いが三か月も滞れば、多分その部屋の水道は止まるだろう。でも、そうなったら別の部屋の水道から水を調達してくるか、あるいはいっそ別の空き部屋へ移動してしまえばいいだけのことだ。
 空き部屋には通常、鍵がかけられているが、そんなものはドアごと外してしまえばいい。この部屋のように。
「……おい、あんた。聞こえてんのかよ」
 リクが重ねて訊ねた時、ようやく男はちらりと視線を上げて、答えた。
「まあ、ね。ほひはふ金がなふてね。今朝方にひたって、宿代は結局、持ってた鞄の現物支給で片づけてきたぶらいでね。もっとも、中に入れる物もないんらから、鞄なんて持ってるだけ無駄らったんらけどね」
 食いながらしゃべるから、言葉がところどころ不明瞭だ。とにかく食っている。リクが準備してやったものを、どんどん食う。この細い体のどこに入っていくのかと思うほど、ものすごい勢いで食っている。
 リクは改めて、どこかズレたこの男を眺めていた。
 肩幅が広く、胴が短い。四肢が長く見える体型だ。いや実際に手足は長い。ただ、その胸はお世辞にも厚いとはいえない。幅があって薄いから、印象としては、三角定規に手足をつけたような体つき、ということになる。
 幅広の肩の真ん中からにゅっと突き出た頭には、明るいブラウンのぐしゃ髪。髪の下には、少々こけ気味の頬と、妙につるりとした長い顎。やけにすっきり通った鼻の下には、あるやらないやらわからない程度に薄い唇が貼りついている。
 歳の頃は……よくわからない。三十代半ばぐらいには、見える。だが、まだ二十代と言われればそう見えないこともないし、若作りの四十代といわれれば、そんな風にも見える。
 血色もまた、いいのか悪いのかわからない。もともと色白なのか、それとも絶食のせいで青ざめているのかの区別もつかない、どこか作り物めいた感じの薄い色なのだ。
 ただ、大きな目だけはわずかな濁りもなく、くっきり、キラキラとしていた。一見かなり不健康そうな顔つきなのに、不思議と陰鬱な感じがしないのは、その目のせいだろう。
 髪と同じ明るいブラウンの瞳の上に、肉の薄い二重の瞼。瞼のすぐ上には、マーカーで無造作に引いたような太く濃い眉。
 あのジャケットは、まだ着込んだままだ。
 道端の暗がりではかなり高級そうに見えたジャケットだったが、今こうして明るい灯の下でよく見ると、安普請ではないものの、だいぶ傷んでいることがわかる。
 左右の肘には、はっきりと色も質感も違う、しかも不揃いのパッドが当てられていた。擦り切れた上に有り合わせの革を貼り縫いつけました、という感じだ。
 気になるのは、二枚接ぎになった背中にも、幾つか妙な具合に当て革が貼られているところだろうか。普通なら擦り切れそうもない場所に、丸や四角の革が縫いつけられている。その配置は行き当たりばったりという風で、なにかをデザインしているようにも思えない。
 ボアになっている襟、これも毛先が絡まり固まって、ひどいものだ。普通ボアってものは、触れれば柔らかくさわさわとして気持ちいいものだ。でも、このボアについてはそういう常識は通用しないだろう。安物のタオルの方が、よほどいい手触りに違いない。
 ともあれそのジャケットには、充分な手入れをされつつ愛用されてきた、という雰囲気があった。きっと長年に渡って、男の、良きパートナーであり続けたものなのだろう。
 長い脚の先が突っ込まれているブーツも、だいぶ履き古されているらしい。それは、合成品だががっちりとした造りと素材で、何千kmと歩こうがヘタりも削れもしない、包まれる足にも負担をかけない類のもの、つまり実用品としての高級品らしかった。貧乏人が喜んで買い求めるタイプの品物だ。
(……文無しってのも、案外ウソじゃないのかもな)
 リクはそう思って男の顔を見た。男はまだ食い続けている。リクの視線を、ことさらに気にするでもない。ただ無心に、食っている。
 リクはそれを眺めるのに飽き、立ち上がってキッチンに入った。
「コーヒー、飲むだろ? 淹れてやるよ」
 男はんぐんぐと喉を蠢かせて口の中のものを飲み込んでから、首を横に振った。
「あ、いや、コーヒーはいいよ」
「遠慮なんかしないでいいんだぜ」
「いや、コーヒーはあまり好きじゃないんでね。あんなに黒くて苦いもの、なんでみんなありがたがるんだろうね。俺にはそれが、てんでわからないんだ。もらえるんなら、普通の水がいいな」
「……あんた、ここがどこかわかって言ってんのか? ここの水は、色こそ透明だが味もニオイも最低だ。それこそコーヒーで誤魔化しでもしなきゃ飲めやしねえって評判だぜ」
「いや構わない。どんな水だって、コーヒーよりはマシってものだよ」
「……わかった」
 リクはフォーセットからカップに消毒臭い水を注ぎ込み、自分のカップには湯と黒い粉を入れた。リクのカップだけから、香ばしい匂いがパッとたちのぼる。
「そういえば、まだあんたの名前も聞いてねえよ。教えてくれ」
 リクが言った時には、男は、山ほどあった食い物をすべて綺麗に片づけ、薄汚れたハンカチで口許を拭っていた。
「ああ、そうだね。その前に……ごちそうさまでした」
 両手を合わせて頭を垂れる。おかしなところで礼儀正しい。
 そして男は、面食らっているリクに、邪気のない顔を向けて、言った。
「俺は一応、リンゴーって呼ばれてる。でも、キミが気に入らなかったら好きなように呼んでくれて構わないよ、我が友」
「……なんだ、そりゃ。それって、名前っていえるのかよ」
「いいじゃないかぁ、細かいことにはこだわらないことだよ我が友」
「その“我が友”っての、勘弁してくれよ。俺にはリクって名前があるんだ」
「わかった。じゃあこれからは、友リクと呼ぶ」
「だから、その“友”ってのはやめてくれっていってんだよ」
「……駄目なのか。残念だ、リクくん」
 リンゴーと名乗った男は、本当に残念そうに首を振った。相変わらずしゃかしゃかしているが、それでも腹いっぱいになったせいか、多少は余裕があるように見える。
「ああそうだ、リクくん」
「くん、も余計だ。リクでいいよ」
「うぅ、なんだか寂しいな……。まあ、いいか。で、リク。キミって独り暮らしなの?」
「見た通りさ」
「家族とか恋人とか、そういう相手はいないのかい?」
「見た通りだよ」
 リンゴーは、へえぇ……と妙に感心して、部屋の中をざっと見回した。

(続く)