かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【Ringo the Wight/#2-08】

(承前)

 ヴィレンががっくりと肩を落とし、本部の奥の部屋の椅子に、ひとりで座っていた。
 膝の間に頭が入ってしまいそうなほどに俯いて、リンゴーたちが入っていっても、ぴくりとも動かない。
「ヴィレン……」
 リクが声をかけると、ヴィレンはゆっくりと顔をあげた。
 その人相の変わりように、リクは息を呑んだ。
 昨夜遅くに、『明日も気張ろうぜ』と声をかけあって別れた時とは、まるで別人のようだ。いや、それが本当にヴィレンであるかどうかさえ疑わしいほどに、げっそりとやつれている。
 確かにこのところ、ヴィレンは日増しに疲れをため込んでいたようではあった。
 本部で、情報整理を担当する少年たちの指揮をとりながら、あちこちに散らばっている尾行組への指示も出す。その合間にはこまめに自分の部屋に戻ってもいた。多分、エイミのもとで疲れを癒していたのだろう。
 けれどその程度では追いつかないだろうほどに、ヴィレンは体を酷使していた。他のリーダーたちや、リクやリンゴーと、多少でも分担すれば楽になるだろうに、むしろ率先して仕事を引き受けては、こなしていた。それはまるで、自分自身をいじめているようにも見えた。
 リクにさえ、日ごとにヴィレンから集中力が欠けてゆくのがわかった。声をかけても、返事がひと呼吸遅れたりするようになった。
 けれど、それでも判断はいつも的確だった。弱音を吐くどころか、ちらりとでも弱気を見せようとはしなかった。凛として、チームのメンバーたちをまとめあげていた。
 そのヴィレンが、まるで別人のように弱々しく、頼りなくなってしまっている。
 たった一晩で、いやきっとエイミの失踪を知ってからのほんの少しの間で、これほどにもひとの顔というものは変わってしまうものなのか……リクはただ呆然とする他、なかった。
 その場に立ち尽くすリクを追い越して、リンゴーが一歩前に進み出た。
「ヴィレン……すまない」
 リンゴーの言葉に、ヴィレンはうっすらと笑みを浮かべて、首を左右に振った。
「いや、いいんですよ。予測できないことじゃ、ありませんでしたし」
「……そうだね。予測できないことじゃ、なかった。けれど……だからこそ、すまない」
 リンゴーは言ってヴィレンに近づき、背を丸めて、てのひらをヴィレンの肩に乗せた。
 ヴィレンが再び俯き、顔を向こうに背けた。その仕種は素早く、まるで顔を隠そうとでもしているように見えた。
 間をおかず、ヴィレンの体が、がくがくと震え始めた。喉からは、く、く、く……と、くぐもった声が漏れている。
 リクには一瞬、なにが起こったのか、わからなかった。けれど――
(あ……!)
 それが何事か気づいた時、リクは、見てはいけないものを見、聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、思わず顔を背け両手で耳を塞いだ。
 泣いている。ヴィレンが、泣いているのだ。
 今まで、こんな姿のヴィレンを見たことはなかった。ヴィレンはいつも頼れるリーダーだった。優しい兄貴分だった。泣いたりするはずのない男だったのだ。
 そのヴィレンが今、声を押し殺し、体を震わせて、泣いている――。
(エイミって……ヴィレンにはそれだけ、大事なひと、だったんだ……)
 それが今さらながらに思われて、つらくなった。そして同時に、強烈な何かが胸の奥にこみあげてくるのを、感じた。
 強烈な、なにか。
 ひどく荒々しく、巨大で、どす黒いもの。
 それが一気に膨らんで喉までせり上がり、リクの体内で暴れ始めている。
 これは、なんだろう。こんな気分は、今までに感じたことがない。さんざんにボコられた時の敗北感より、子供だからと甘く見られた時の屈辱感より、ずっと激しいなにか。
 息苦しい――黙っていると狂いそうになる。じっとしていると、吐きそうになる。けれど、うっかり口を開いたら、途端に叫びだしてしまいそうだ。
 リクはそれを必死で堪え、声を押し潰して、呼んだ。
「リ……リンゴー……」
 リンゴーが振り返る。
 厳しい顔、だった。
 けれどその厳しさは、リクにとって、なにか心地よいものだった。もしかしたらリンゴーもまたリクと同じように、荒々しい何かを押さえ込んでいるんじゃないか。そんな共感めいたものを感じられる顔だったからだ。
 リンゴーは何も言わないまま、再びヴィレンを見た。ヴィレンはただ俯いて、泣いている。
「ねえ、ヴィレン」
 リンゴーが、ゆっくりと言う。
「もう、いいんじゃないかな。……リクには、明かしても、いいんじゃないかな。ヴィレンがひとりで背負うには、元から重過ぎたんだよ。ヴィレンはもっと楽になっていいんだ。ね?」
 ヴィレンが顔をあげた。
 まるで子供のような――そう、本当に幼い子供が、誰か頼れるひと、たとえば両親を、たとえば兄姉を見ている時のような、すがる目をしている。
 その目で、リンゴーを見ている。
 微妙な疼きを、リクは感じた。
 リンゴーがヴィレンに、柔らかく微笑む。
「おっけー。俺から話すことにしよう。……セトくん、ちょっと人払いしたいんだ」
 リンゴーが言うと、セトはひどく緊張した様子で何度も頷き、部屋を出ていった。もちろん、ドアをきっちり閉めることは忘れない。
「リク、こっちに」
 リンゴーに招かれ、リクは近くにあった椅子を持って、二人に近づいた。
 少しずつ距離を取って、三人は丸く座った。
 リンゴーが低い声でしゃべり始める。
「……リクは、なんでヴィレンがヤクザと契約しようとまで思い詰めたのか、不審には思わなかったかい?」
 いきなりの問い掛けに、リクは一瞬、詰まった。
「十二年前のことを知っていて、ヤクザへの対処法も習っていたヴィレンが、どうして今さらヤクザに従おうとしたのか。リクは、不思議だとは思わなかったのかい?」
 リクはしどろもどろになりながら答えた。
「……そりゃ、不思議には思ったけどさ。でも、アレだろ? ヴィレンにプレッシャーかけてたチームは、ヤクザの息がかかってたわけじゃん。そしたら、毒には毒、ってことも」
「なるほど。でもねリク。ヴィレンはそれほど傲慢な男でもないし――ヤクザを毒薬として使いこなせると思うような、ね――、愚かでもない。それは俺よりリクの方がよく知ってるはずだよ。それに、なぜエイミがリクに相談したのか、それも不思議には思わなかったかい?」
 それは、そうだ。確かに最初から、不思議には思っていた。
 チームには、リクより年上の、充分にキャリアのあるメンバーが何人もいる。それなのに、なぜリクが相談されたのか。リンゴーもちらりと、それには理由があると言っていたはずだ。
 けれど、それを気にするよりもリクは、エイミに相談されたこと自体を喜んでいた。頼まれたことをやり遂げなければ、と思った。だから、特に考え込んだりもしなかった。
 でも……。
「簡単に言おう。エイミはもうとっくに……攫われるよりずっと前から、ヤクザの毒牙にかかっていたんだよ。俺がこの街に来るよりも、前からね」
「え?」
「そしてリク、キミもかなり早いうちから、ヤクザにマークされていたんだ」
 リンゴーが言ったことが、よくわからない。いや、本当にそう言ったのかどうかさえ、よくわからない。頭の中身が、かーんと抜けてしまって、そこでうゎんうゎんと音が反響しているみたいだ。何を言われたのか、把握できない。理解できない。
「そしてそれを、ヴィレンは知っていた。いや、リクがマークされたこと自体、ある意味では、ヴィレンのせいだといえる」
「ちょっと、ちょっと待ってくれよリンゴー。いったいあんた、何の話をしてるの? 俺に何を聞かせようとしてるの?」
「落ち着いて聞いてほしいんだけれど……大丈夫かな。パニックを起こしたりしないかな」
 パニック?
 リクは、やっと気づいた。
 そうか、パニックなんだ。俺は今、パニックを起こしてるんだ――。
 朝方のリンゴーの、妙に引いた態度。追い打ちのようなエイミ略奪の話。悲嘆にくれるヴィレンの姿。そして今の、わけのわからない話。
 その都度、気分が上がったり下がったり、目まぐるしく動いて、事態を把握するどころじゃなくなってた。パニックだったんだ。
「そんな時は、まず、深呼吸をするんだよ。酸素を補給しないといけない。糖分も補給した方がいいね。脳の元気には、そのふたつが大切なんだ。ああ、そうだ……」
 リンゴーは言って、ポケットに手を突っ込み、指先で奥を探る。目的のものを見つけたらしい。唇の端がきゅっともちあがり、剽軽な笑顔になった。
 ポケットから抜かれた手が軽く振られ、指先から小さなものが飛び出す。
 リクはそれを片手で受け止め、その手の中を覗き込んで、目を丸くした。
「前にリクからもらったやつで、申し訳ないんだけどね」
 飴玉、だった。あの時……初めてリンゴーに会った時に、リクが投げ渡したもの。
 包み紙がぐしゃぐしゃになっている。あれからずっと、ポケットに入れていたのだろうか。とすると中身は溶けて、もうベタベタになっているかもしれない――
(なんでこんなの、とっとくんだか)
 思った途端、リクは、吹き出しそうなおかしさを感じた。変なやつだなあ、リンゴーは。まさか、こんな時のために仕込んどいた、ってわけじゃないだろうな。いや、やりかねないよ、リンゴーなら……。
 深呼吸か。そうか。
 リクは素直に目を閉じ、背を反らして、二度、三度と大きく息を吸い込み、吐いた。
 指先で包み紙を剥き、中から、しっかりベタベタになっていた飴玉を取り出す。そしてそれを、口の中へぽいっと放り込む……。
 甘い。その甘さが、体の奥の、どこか深いところにしみこんでゆく。
 次第に、空っぽに抜けていた頭の中に、何かが戻ってくる気がする――。
「うん。大丈夫みたいだね。じゃあ、詳しいことを話そう。ああ、でもこれは、俺が調べた範囲のことでね、細かい部分は違っているかもしれない。そういう部分は、ヴィレン――」
 リンゴーは言って、ヴィレンの方を向く。
 声をかけられてヴィレンは、ようやく涙も治まってきた顔をゆっくりと持ち上げた。
「ちゃんと訂正してくれよ」
 そしてリンゴーは、にっこりと笑った。
 大丈夫、の笑みだ。
 ヴィレンは頷き、そしてまた俯いた。

(続く)