かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#4】邂逅−08

(承前)

 それは鮮やかな変貌だった。
 特に仰々しく時間をかけることもなく、わずかに美弥の全身が、陽炎に包まれたように揺らいだ。まとっていた服が、ぱさぱさと軽い音を立てて落ちたと思った時には、そこには美弥でない、別のものがいた。
 由衣は息を飲んだ。
 真っ白い、大きな、狐。
 四本の、すらりと長い脚を踏みしめて、見事な毛並みの、狼ほどもある大きな狐が、由衣をじっと見つめて立っていた。
 かたちこそ狐になったが、その瞳は、間違いなく美弥のものだった。黒く深く、奥の知れない美弥の瞳だ。
 狐は、立派な尾を、どこか誇らしげにひと振りした。同時に狐の姿が、ゆらり、と揺れた。
 一瞬の後には、そこに美弥が、元のように立っていた。ただし、全裸で。
「まあ、服のかたちまでは変えられないしねえ。それに、姿が変わる時、ほんの少しだけど、実体のない瞬間があるみたいでね。そのまま戻ると、こんな具合になっちまうわけだが」
 笑いながら美弥は、下着だけを拾い上げて、身に着けた。
「なにしろ“思った通り”だからね。思うことに曖昧さがあると、その辺も曖昧になっちまうのが、いささか面倒ではある。
 ずっと前に、ある男の奥さんになろうとしてみたことがあったんだが、服を脱いだらバレちまった。体つきが全然違うってね」
 由衣は思わず吹き出してしまった。美弥もまた、にーっと笑っている。その顔を真顔に戻して、美弥は言った。
「だが、確実にそのものになる方法も、ある。見ていない、憶えてもいないものになれる方法がね。そいつの肉を食うことさ。どういう仕組みなのかは知らないが、肉を食えば、完璧にそいつになれるんだ。
 だが一方、食ってみてもなれないものもある。物にはなれないね、どうしても。ヤギの真似して紙を食ってみたが、本にゃあなれなかったんだ。なれちゃっても困るが。
 あんたが自分の姿に戻れたのも、そいつ……あんたが乗っ取ったやつが、その前にあんたの肉を食っていたからだろう」
 由衣の笑いが止まった。その時のことを、生々しく思い出してしまったからだ。
「……他にもあたしたちには、いろんな力がある。もともとかたちがないんだから、壁抜けなんて簡単なもんさ。
 とはいっても、やり方を間違うと、今みたいに、素っ裸で向こうに現れるなんてことにもなる。あんたはそれを、難なくこなした。多分、あんたの“体”が、それだけの力をもっていたってことなんだろう。
 そう、あたしらの“体”は、“体としての記憶”をもっている。それを失うことなく、ある方法で増やしていける……」
 美弥の声の調子が、一瞬、沈んだ。その沈んだ声で何かを言おうとして、美弥は、口をつぐんだ。わずかに間をおいて美弥は、からりとした口調で、またしゃべり始めた。
「ま、移動についちゃ、人間よりもいろいろと有利なのさ。壁抜けみたいな“跳躍”は、でも、とんでもない長距離には使えないけどね。そういう時には、やっぱり乗り物を使ったり、この脚を使ったりして移動しなきゃならない。
 それから、ひとの心をある程度まで読み取ったり、動かしたりすることもできる。
 思うことで力を集めて、飛ばすこともできる。こんな風にね」
 美弥は片手を伸ばし、指先をカーテンに向けた。と、その指の真っ直ぐ先でカーテンがゆらりと揺れた。
「けっこう力加減が難しいんだ、これ。あたしは力をぶつけることしかできないが、うまい奴は物を浮かせたりするよ。あんたがどれぐらいできるようになるかはわからないが、迂闊にはやらないことだ。この力、気合いを入れりゃ鉄だって砕く」
 由衣はただ呆然としていた。自分に、本当にそれほどの力が本当に備わったのだろうか。だとしたら、この世に恐れるべきものなど、ないのではないか。
「ただ、力を使えば、当然だが、腹が減る。そしてその空腹は、ひとと同じ食事をすることでは満たされない。心を喰うことでしか、それは回復しないんだ」
 美弥は由衣の心を見透かしたように言った。
「だから、この力で人々を統べようとしたって、無理なのさ。それをするには、無限の喰い物が必要になる。統べるべき相手がいなくなっちまっちゃ、仕方ないだろう?」
 由衣はごくりと唾を飲み込んだ……つもりだった。だが喉が動いただけで、飲み込んだという実感がない。
(……そうか。かたちはひとでも、ひととしての機能はないんだ。だから、昔からの習慣で、湧いていた唾を飲み込んだつもりだったけれど、唾の湧く感覚だけが残っていて、実際には唾が湧いたわけじゃなかったんだ)
 便利なようで不便な、奇妙な中途半端さ。体はあるのだけれど、ないに等しい状態。
「いずれにせよ、あたしらは世間の常識ってのとはだいぶズレた在り方をしてる。この体に慣れるのは、けっこう面倒だ。どうかすると、今まで生きてきた時間よりずっと長い時間をかけても、馴染めないかもしれないよ」
 美弥は言って、首と肩をくりくりと回した。
 今まで生きてきたよりも、ずっと長い時間を、この体で過ごす。
 それはいったい、どんな時間なのだろう。
 由衣には想像することさえできなかった。
「ま、その他のことについては、おいおい少しずつ、あたしの知る限りは教えてあげるよ。とはいえ、もしかしたらあたし自身、そんなにわかってはいないのかもしれないけどね」
 由衣はこっくりと頷き、口を開いた。
「それで、あの……」
 美弥が、ん? と首を傾げる。
「美弥さんが今していることについても、知りたいんです。それから、どうして私をここに連れてきてくれたのか、も……」
 美弥は視線を逸らし、仕方ないなあ、と呟いた。
「大したことでもないんだけどね。そう、確かにあたしは、“仲間”を狩ってるのさ。
 ただ、同族と見たら委細構わず狩ってるわけじゃあ、ない。悪辣な奴を見ると、放っておけなくなるだけなんだ。
 あんたを連れてきたのは、そうだねえ……これといった理由もないが、なんとなくあんたが気に入ったからかな」
「なんであの街へ行くんですか?」
「それは実は、あたしにもまだはっきりとはわからない。ただ、胸騒ぎがするんだ。あの街で近々に、何かをやらかす奴が出そうだって胸騒ぎがね。
 それであたしは、行くんだ。何が起きるかも、何ができるかもわからないくせにさ、行かずには、いられない。それだけのことさ」
「それから……あの……」
 由衣は言い澱んだ。それを訊いていいのかどうか、ためらいがあったからだ。
 だが美弥は、きっぱりと言った。
「……あたしは、ひとは喰わないよ。まあ、やむをえない時ってのはあるが、それでも喰い尽くして死なせるようなことはしない。安心しな」
 由衣ははっとした。訊ねたいことの答えがストレートに返ってきたからだ。
 美弥はにやりと笑った。
「迷って考え込むほどに心の表側に持ち上がってることは、簡単に読めるんだよ。その程度だけどね、あたしは。もっと深くまでを読める奴もいるらしいが、そんなものを読んでも面白くもなんともないさ。
 ともあれ、それもまた、あたしたちの能力だ。それぞれに読み方みたいなもんがあるらしくて、こうすればいい、って定法はないようだが、あんたもちょっとその気になればできるはずだよ。試しにあんた、あたしの気持ちを読んでみな。
 そうだねえ、あたしをじっと見て、あたしの覆いを外してみるような感じでね……」
 由衣は半信半疑ながら、美弥をじっと見つめてみた。
(覆いを外すような? どうすればいいんだろう。うーん……)
 読むという言葉からの連想が浮かんだ。本。そうだ、もしも美弥が本だとしたらどうだろう。
 本を読むなら、表紙を開き、ページをめくる。由衣は心の中で、その動作を試してみた。
 美弥を本だと思う。そして、美弥という本のページを、自分のイメージの中の、自分の指先でめくる……。
〔今日は一緒に風呂に入ろうや〕
「えっ!?」
 美弥のそんな声が聞こえた気がして、由衣は瞼をぱちぱちとさせた。
「そうそう、そういう感じだ。慣れればもっと簡単にできるようになる」
「……うわあ……」
 由衣は、ちょっと感動していた。ひとの心を知ることが、こんなに簡単にできてしまう。そのことの重みを考える前に、そもそも無邪気な少女の心が、それを喜んでいた。
 美弥はそんな由衣の様子に、慈しむような笑顔を向けて、言った。
「で、どうだい?」
「どうだいって、何がですか」
「風呂だよ風呂。洗いっこしようよ」
 由衣は真っ赤になって俯いてしまった。その由衣を見て、美弥はからからと笑った。

(続く)