魔少女・由衣 闇狩り【#6】闇狩り−07
(承前)
「わたしは……負けな……い……んだ」
ガラガラガラ、と壁が崩れた。男の肉体の、壁を押し退けようとする圧力が、壁の硬さに勝ったのだ。
男の、さっきよりひとまわり以上大きくなった体が、床に転げ落ちた。男はそして、四つん這いの姿勢になり、荒い呼吸を数度、繰り返した。
「負けない!」
男が叫び、首を起こした。
「力だ、力! わたしの力! わたしの! 体だ……体を戻せ、負けない体になれ!」
途端に、男の体が倍ほどに膨れた。筋肉が盛り上がり、その急激な膨張についていけなかったシャツが、ズボンが、ビシッという鋭い音をたてて破けた。
中空を睨んだ目は、急激な膨張の時にバランスを失ったか左右段違いとなり、まん丸く開かれて、地上に引きずりあげられた深海魚を思わせるものになっている。歪んだ口許には、下卑た笑いが浮かんでいた。その口の中に、細かく数えきれない乱杙歯が、三列。
「がおぁごゎあ……」
もはやひとの言葉も紡げなくなったか、男の喉から迸ったのは、まさしく獣のおめきだった。
そのおめきには、明らかに歓喜が、昂揚が、含まれていた。
力を失っていないことを確認した歓喜。より強い、自らのイメージを反映した肉体を得た歓喜。戦いをまだ貪れる、自身を辱めた相手を叩き伏せられるであろう確信がもたらす昂揚。
ゆらり、と全身を揺らして、男が……いや、男だったもの、が立ち上がった。
かろうじて全体のフォルムは人間に近いものになってはいるが、四肢のバランスがかなり崩れていて、ひどく不格好だ。皮膚は青黒く変色し、分厚く硬く、ところどころが重なりあって、犀のそれに似たものになっている。
そして、胸の中心に赤で縁取られた黄色の逆三角形が貼りつき、その中心には、これも赤で、ミミズがのたくったようなひとつの文字が染め抜かれていた。
それは、不器用で拙く醜悪な、ヒーローのパロディだった。
これがきっと、男の望んだ自身の姿だったのだろう。失笑してしまうほどのイメージの貧困さと、背筋に寒けを走らせる巨大な妄念が、そのままに顕された姿だった。
四肢が不釣り合いなせいで真っ直ぐには歩けないらしい体をぐらぐらと揺らし、化け物が吠える。
ぐぁるあぐあ。あぐあ。おぅがうあ。
そして、歪んだ魚の目で、由衣を見た。
「やだ……こんな……どうして……」
由衣はただ呆気にとられて化け物を眺めていた。
あれだけの衝撃を受けながら、倒れない。
それどころかいっそう頑丈に、いっそう大きくなって、立ち上がっている。
化け物が、一度ゆっくりと体を反らせて勢いをつけ、顔をぐいと突き出し、口を開いた。
ばりばりと音をあげて、化け物の唇の端が破れた。白い無数の歯が、顎の付け根辺りからぞろりと剥き出しになる。そして、その口の奥から、あの空気の歪み──最前、男の放ったものと同じ、力の塊が飛びだした。
あ、と由衣が思った時には、もう遅かった。
慌てて避けようとしたが間に合わず、力は由衣の左肩をかすめていった。
もっていかれる感覚があった。体が捻られ、由衣はその場に転んだ。
「きゃあッ!」
叫んでいた。左半身に、強烈な衝撃が走った。由衣は転んだまま、左肩を見た。
ない。
なくなっている。
左腕が、丸ごと、消えている。
ささくれだった傷口から、鮮血が吹き出していた。その血が、由衣の白い服をあっという間に赤く染めていく。
頭の中で、閃光がバシバシと瞬いた。
物理的な衝撃のせい、だったかもしれない。それとも、片腕を失ってしまったことへの驚愕だったかもしれない。いずれにせよ由衣の心は、その瞬間に、凍てつき固まった。
化け物が、傾いた姿勢のまま、にたあっと笑った。首筋まで伸びた口の、端をキューッと持ち上げて、笑っていた。
ぐぁるうぁるぇあう。ぐゎうわう。
化け物の喉から、濁った呻きが漏れた。笑い声……なのだ。
そして化け物が、再び背を反らした。
由衣はただ、それを眺めていた。
あの背がまた丸まり、私に向けて口を開いた時に、もう一度、力が飛んでくるんだな。
それを受けたら、終わり……か。
由衣はただ、目を開いて化け物を見ていた。
スローモーションのように、化け物が、充分に反った体を、戻す。さっきよりも、ずっと手前に、醜怪な顔が、突き出される。口が、開く。喉の奥の、濁った紅色の襞までが、見えた。
飛んでくる。力が、くる。
その時、由衣の耳に、波長が飛び込んできた。
甲高く、鋭い。硬質なガラスの表面を、鋭利な針で無理やりに削り落とそうとでもしているような音だ。
(この音……この音!?)
放たれた化け物の力が、ぐいっと進路を曲げた。由衣に当たるはずだったそれは、横の壁に当たって炸裂し、コンクリートの破片を撒き散らした。その破片も、由衣を避けていく。
護られている……包まれている?
「あぁったく……」
後ろから、ため息めいた声が聞こえた。
「いきなりやられるたぁ、あたしもずいぶん、みっともないとこ晒しちまったもんだね。まさか、こんなド素人が相手だとは思わなかったもんな。……逆の油断をしてた、ってことかい。あー、いけない、いけない」
由衣は倒れたまま、首だけを持ち上げて、声のした方向を見た。
美弥が、埃まみれになって、立っていた。
ドアとともに飛ばされた時に破けたのだろう、服はぼろぼろになって、あちこちから白い肌が覗いている。だがその肌には、傷ひとつついていない。
美弥の姿を見つけて、今度は化け物が、呆気にとられていた。
「美弥さん!」
由衣は、心が急に動きを取り戻すのを感じていた。恐怖や緊張、驚愕……今の一瞬の間に凍りつき、機能せずにいたそれらの感情が、一気に溶けて動きだした。途端にそれは涙になって、目から溢れ出た。その涙の温かさが、頬に、奇妙に新鮮に感じられた。
「ひどい姿になっちまったねえ。よく頑張った……と言ってやりたいところだが、褒められたこっちゃないぞ。あいつもそうだが、あんたもやっぱ素人なんだな。仕方ないけどね」
美弥が乾いた口調で言う。だがその顔には笑みが浮かんでいる。冷たい笑みではない。由衣への温かい感情がこめられた、優しい笑みだ。
「美弥さん……美弥さんっ」
由衣は残っている右腕で体を起こし、膝立ちになって美弥にしがみついた。美弥が少し屈んで片手を伸ばし、由衣の背中に当てる。ぽんぽんと軽く叩いてから、美弥は言った。
「あたしらの戦い方はね、こういうもんじゃないんだよ。あいつをご覧。くらっても全然、平気だろう? そりゃそうさ。前にも言ったじゃないか、あたしらには実体ってもんがないんだ。心が生きてりゃ、体なんぞ、なんぼでも修繕できる」
美弥は、由衣の背に手を当てたまま、化け物を睨みつけた。
「見てな。これがあたしらの、本来の戦い方だ」
言われて由衣は、美弥を見上げた。
恐ろしい形相を、していた。
眉根がきりりと引き締められ、つり上がった目が化け物を凝視している。横一文字に結ばれた唇は彫像のそれのように強張り、心なしか頬さえ削げたように見える。
その形相に由衣は怯えた。その瞬間に、なんの前触れもなく、いきなり周囲の景色が消え失せた。
(続く)