かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#6】闇狩り−02

(承前)

「んっ!?」
 午後七時にもなろうという頃、だろうか。今日も空振りかと思った時に、珍しく美弥が喉から声を漏らして瞼を開いた。
 由衣も口許を引き締めた。
「……聞こえたね?」
 問い掛ける美弥に、由衣はこっくりと頷いた。
 そう、確かに、聞こえた。
 聞き覚えのない、波長。
 喜んでいるのかもしれない。それははっきりと上擦り、昂っている。しかも、まるで耳元で鳴ったかと思うほどに大きく、突然に、聞こえてきた。
「……なんかおっ始めたみたいだね、こりゃ。辿れるかな」
 言って美弥は立ち上がった。由衣も慌ててそれに従う。
 テーブルの上にカップを放ったまま、ふたりは店を出た。
 店の出口の四つ辻に立った美弥は、険しい目つきで、暮れ始めている周囲をぐるりと見回す。方向を掴みかねているようだ。
「あの……」
 由衣は美弥に声をかけた。
「わかるかい?」
 美弥は表情を変えないまま、由衣を見もせずに問い返す。
「……あっち、だと思います」
 由衣が差した方角に、美弥は顔を向けた。
「あんた、“耳”がいいんだね。もしかしたら、えらいやつをかっぱらったのかもしれない。……とりあえず、案内してくれるか?」
「はいっ」
 由衣は歩き出した。
 間違いない、はっきりとそちらから聞こえてくる。
 美弥を先導しながら、由衣は、自分にできることがある、という妙な確信と嬉しさを感じていた。あの時──襲われていた女を助けに行こうとした時と同じような、はっきりとした確信だ。
 由衣は、次第に強まる波長を追って、次第に歩調を早めた。
「本当だよ、だんだん近づいてくる。……それにしても、なんて波長だろうね。こんなに喜んでる、あからさまに。ここまで能天気な、いや狂喜に近い波長は、初めて聞く」
 言う美弥の声が強張っているのがわかる。波長から、相手の強力さを測っているのだろうか。
 ふたりは、盛り場からどんどん離れていった。いつの間にか美弥も、くっきりと聞き取れるようになったらしい。由衣と並んで、いや時には数歩も先を歩くようになっている。
 二人が同時に足を止めたのは、雑居ビルが立ち並ぶ一角だった。
 雑居ビルとはいえ、中に収まっているのは店の類ではない。正体のわからない、危なげな事務所の類だ。
 古びて薄汚れたいくつものビルの中に、ひとつ、はっきりと目立つものがあった。
 別に、悪魔の眼力がそれを区別しているのではない。そのビルだけが、ごく最近に外装を整えでもしたのか、本当に輝いているのだ。
 荒神会。ビルの壁に飾られた金色のレリーフ文字は、そう綴っている。
「……ふうむ……」
 美弥が、ビルを見上げてぼそりと呟いた。
「ここ、博徒さんの……いや、暴力団ってやつの根城かな?」
 暴力団。その言葉を聞いて、由衣は背筋に寒けを覚えた。
 そう呼ばれる人々と、実際に対面したことはない。だが、いろいろな情報だけは、さまざまなメディアから得ている。
 組み上げられたそのイメージが、由衣の足を竦ませた。
 だが美弥は、そんな由衣に気づいてはいない。“獲物”を目前にして、獲物しか目に入らない狩人の緊迫感だけを、美弥は全身からたちのぼらせている。
「あ、あの」
 一歩を踏みだした美弥に、由衣は声をかけた。
 美弥が首だけを回し、振り返る。
「ここ……入るんですか?」
 何を今さら、とでも言いたげな目をして、美弥があっさりと答えた。
「そうだよ」
 由衣は目をまん丸く見開き、顎を引いて、唇をわずかに引きつらせた。その顔を見て、美弥は少しだけ気を和ませたようだ。
「ああ、そうか。怖いか。それも当然だな。だが、大丈夫だ。少なくとも、暴力団連中はまるで怖くなんかないよ。あたしたちには、テッポウもヤッパも、クスリだって役に立たない」
 言われて由衣は、やっと気づいた。自分はすでにひとではないのだ。ひとを傷つけるための道具や技術は、なるほど、恐れる必要など、ない。
 でも、だからといって恐怖が消えるわけではなかった。暴力というものに対する本能的な恐れと警戒が、由衣の心を掴み、強張らせている。
 美弥はそれを素早く読み取ったのだろう。少し無理をして笑顔をつくり、体中で由衣に向き直って、言った。
「大丈夫だってば。まあ、あんたにまで戦えとは言わない。あたしにぴったりついてくれば、大丈夫さ。全然、問題ない」
 そして美弥はくるりと体を翻し、ビルの入口のドアを押した。
 いってしまう。置き去りにされてしまう。
 美弥に棄てられることは、今の由衣には、暴力を受けることより恐ろしかった。その恐れが、凍りかけていた由衣の脚を動かした。
 もう中に入ってしまっている美弥を追って、由衣も入口のドアを押した。
 強すぎるほどに効いたエアコンのゾクリとするような冷気と、どこかで嗅いだ憶えのある不快な異臭が、中には満ちていた。
 入ってすぐ左手に、受付らしいカウンターがある。そこには誰もいない。美弥はひょいと首をカウンターに突っ込み、中を検めた。
「ありゃ」
 美弥が、いささか間の抜けた声を漏らす。つられて由衣が中を覗くと、そこには、顔をひどく引き攣らせ、心臓の辺りを大きく抉られてこときれた若者の屍体が、無造作に打ち棄てられていた。
「ひっ……」
 由衣は思わず悲鳴を漏らし、飛び退いた。
「大丈夫だよ。こいつは、違う。……あ、そうか。そうじゃなくて、屍体が恐いのか。
 そりゃそうだわね。重ね重ね、すまないねえ。どうやらあたしは、いろんなことを、だいぶ忘れちまってるみたいだ」
 美弥は、由衣を目だけで振り返ったあと、俯き、腕を組んで、何度も小さく頷きながら、言った。
「そのうち、慣れるさ。人間はみんな死ぬんだ、あたしたちが手出しをしようがするまいが。だから人間と仲良くなれば、いつかはその相手のこんな姿を見なけりゃならなくなる。……それを何度か、いや、何十度か繰り返せば、きっと慣れるよ」
 そう言って再びカウンターの奥をちらりと見た美弥は、突然眉間を険しくし、その体をビンと撥ねさせて、カウンターから飛び離れた。
 それとほとんど同時に、カウンターの中で死んでいる若者が、ゆらりと立ち上がった。
「うそっ」
 由衣はよろめいて背を壁に押しつけ、全身を強張らせた。

(続く)