かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#6】闇狩り−08

(承前)

 真っ暗な闇が、由衣を包む。
 体の実感が失われ、宙に投げ出されたような不安さが全身を覆う。
(な……なに? どうしちゃったの!?)
 叫んだつもりだったが、声が出ない。喉が喉としてはたらいていない。由衣は慌て、手足をばたつかせた。だが、どこにも感触が戻ってこない。浮いている。
『こらこら。うろたえるんじゃないよ』
 美弥の声が聞こえる。音としての声ではない。頭に直接、響いてくる方の声だ。
『憶えがあるはずだよ、この感覚には。心だけになった姿さ。憶えてるだろう?』
 言われて由衣は、理解した。激しい不快感とともに、記憶が蘇る。そうだ、この感覚は、舞唯──だった悪魔──今は自分がすりかわった──に喰われかけた時の、あの感覚と同じだ。
『気配、に切り換えるんだ。体の感覚に頼るんじゃない。気配を探してみるんだ』
 気配に、と急に言われても。どうすればいい? 感じること……探ること? 
『目を閉じたつもりになってみな』
 そうか。体がないのに目を開いたつもりになっているから、見えない気がするんだ。目を閉じたつもりになってみれば、気配の方に気持ちがいくのかもしれない。
『あ』
 由衣は思わず、“声”を漏らしていた。
『わかるようになっただろう』
 目の前に、美弥がいる。いや、美弥の気配が、ある。心の存在感が、ある。
 ぼんやりとしてオレンジ色がかった、温もりのようなもの。伝わってくる、心地のよい波動。
 けれど、その奥には何か、ぞっとするほどに大きく、不透明な暗色をした質量が感じられる。
(これが美弥さんの心だということ?)
『まあ、そういうことだ。そして、もうひとつの気配も、わかるだろう』
 由衣は心をこらした。
 と、それは唐突に、ざらざらとした感触を伴って、訪れた。
 それは、震えている。怯えているのだ。恐慌を起こし、無闇やたらに跳ね回っているようでもある。
 これは、もしかして……?
『そうだ。あいつだ。今、ちと強引に引っ張り込んでやった。ここが……これが、あたしたちの本当の、戦いの場なんだ』
 この暗闇が、肉体の感覚を閉ざされて心だけが剥き出しになった状態が、悪魔同士の戦いの場?
『そういうことだ。あたしたちの本体は、からだの方じゃない。心なんだ。だから、心が剥き身になる場が必要なのさ。食事の作法と、まるで同じだ。
 ……ま、あんたは慣れてないからね。だが体が覚えてるはずだ。ちょっと慣れれば、すぐにこの世界を開き、この世界に飛び込むことができるようになるはずさ。もっと慣れれば、現実の世界との二元中継だってオッケーだ』
 食事の作法。
 悪魔として永らえるための、作法。
 それが、この世界を見つけ、飛び込むということ?
『そうだ。いろいろと感慨はあるんだろうが、とにかくこいつだけは、早めに覚えておくことだ。──さて、あいつの処分にかかるよ』
 由衣は、化け物を振り返った──いや、気配を探る向きを変えた。
 その本体は、絡み合った蛇のようなかたちをし、青く濁った光を放っていた。
 思いのほか、小さい。由衣の両腕でほんのひと抱え、といった程度だろうか。
 そいつは、そのかたちのままもぞもぞと蠢いている。自分が突然に投げ込まれた暗闇の正体が掴めず、怯えて、なんとか逃げだそうともがいている。
『よほどの素人だったんだねぇ。なんでこんなやつが、鬼……悪魔として、暴れられたんだろうかね。力の使い方を知らず、戦い方を知らず、同族の存在も知らず……いいとこ、数日かそこらのキャリアしかないってことかもしれないな。
 それにしても、あいつの心──あのみすぼらしい心が、なんだって元の悪魔の心を喰らえたんだか。かっぱらわれた相手は、よっぽど弱いやつだったってことなのかねえ』
 美弥の“声”が響く。この声は、あいつにも届いているのだろう。だがあいつにはきっと、その意味が、まるで理解できていない。由衣が最初、美弥の断片的な言葉を理解できずにいたように。
 だが、由衣にも相変わらず理解できない部分も、あった。
 元の悪魔の心を喰らう? 弱いから?
『あたしたちはね』
 美弥が答えた。
『前にも言った通り、生き物の心を喰って永らえている。もちろん、同族だって生き物のうちだ。あるいは最も喰いでのある生き物かもしれないよ。なにしろ、心しかないんだからね』
 由衣のイメージの中で、次第に美弥の気配がかたちをとり始めていた。ただぼんやりとした光の塊のようだったものが、美弥のからだのかたちになってゆく。それは、美弥の心がそう望んでとったものではなく、由衣自身が美弥の気配に与えたかたちなのかもしれない。
 その美弥が、敵を見据えながら話していた。
『当然だが、心を喰われた方はくたばる。あたしらの戦いってのは、だから、この戦いの場で、相手と喰い合うことなのさ。だが、時には獲物に負けることがある。その時には、心も能力も相手に奪われて、消えちまうってことなんだ。
 もちろんその相手は、同族とは限らない。餌のつもりで捕まえた人間だったりすることも、ある。……そんな時は、その人間が、悪魔をかっぱらう。能力ごと』
 それが、乗っ取るということ? 文字通り、喰うか喰われるかの戦いだということ?
『そうだ。そして、喰った相手の力を、あたしたちは自分のものにすることができるんだ。そうやってあたしたちは、自分をより強くしていける……望もうが望むまいが、強くなっちまう。
 実際の喰い方は、多分、個々それぞれ、さまざまってところだろう。自分の思う“喰う”ということ、それを実行するんだ。たとえば、こんな風にね』
 美弥の手が、青黒い塊に向かって伸びた。そしてその一片をつまみ、千切り取る。青黒い塊は、その瞬間、ぶるぶるっと震えた。
 美弥は、手に握ったそのかけらを、迷いもせず口許に運び、唇の奥に投げ込んで、咀嚼した。
『あたしゃ育ちが下品だからね。こういうやり方しか、思いつかない。お上品な方は、もっと違う方法で喰ってるかもしれないな。
 だが、喰われる側にしてみりゃ、どんな喰われ方をしようと同じだ。ただ心が少しずつ削がれ、消えていくことしかわからない。
 そしてそれは、どういうわけか、たまらない気持ち良さを伴う』
 言いながら美弥は、再び手を伸ばし、青黒い塊を千切った。塊は、されるがままになっている。おそらく、あの時──由衣が舞唯に喰われかけたあの時のように、何もわからず、ただ闇の海に投げ出された恐ろしさに震えながら、そこに突如として現れる快感に、なすすべもなく従っているのだろう。
『さあ、あんたも、喰え』
 美弥に言われて、由衣は、え? と思った。
『あんたもこいつを、喰うんだ。でなけりゃ餓死するぞ』
 でも、だって、こんな気味の悪いもの……おぞましい心、喰べたりしたら。
『喰えば同じだ。というより、あたしらのからだにとっては、こういう気味の悪いものの方が栄養があるんだ。それともあんたは、あんた自身のような真っ白いものを喰うかね? 憎しみやら呪詛やらにまみれていない、白い心を』
 美弥の言おうとしていることがおぼろげにわかって、由衣はかぶりを振った。
 白い心を喰うこと。それは、罪のないひとを喰うということ。歪みのない、無垢な心を喰い殺すということ。
『慣れてくれば、白い中に、まだらに混ざってる黒いとこだけが見えるようにもなる。そこだけ千切って喰えば、残りは真っ白だ。赤ん坊と同じってことさ。
 多分、見え方は違っても、あんたにももう見えていたはずだ。ひとのそういう心の闇の部分が、あんただけの見え方でね』
 言いながら美弥は、手を伸ばしては青黒い塊を毟り、喰っている。それはひたすらに淡々とした作業だった。
『ま、普通は、これほど簡単には喰わせてもらえない。とにかく相手を弱らせるなり、驚かすなりして、無防備になったところをチクチクと喰うんだ。
 たまたまこいつは、ド素人だった。この場での戦いを、まるで知らなかった。だからあたしの、キャリアのあるあたしの楽勝になったんだが』
 語尾が濁る。見上げると、美弥の表情に微妙な翳りが浮かんでいた。
『……ま、いいさ。それはそれで、またおいおい話すよ。とにかく今は、喰べることだ。あんたも、喰べることだ』
 言われて由衣は、もう一度、塊を見た。
 もう三分の一ほどが、美弥に喰われてなくなっている。由衣は恐る恐る、手を伸ばした。
 指先が触れた途端、それは、ぶるん、と弱々しく揺れた。その揺れ方があまりにも唐突で、また哀れだったから、由衣は思わず手を引っ込めた。
『喰え』
 有無を言わせない口調で、美弥が言う。
『飢えて、見境がつかなくなる前に、喰うんだ。喰いたいという欲望……生き永らえたいという欲望に負けて、白いのも黒いのもわからず喰い始めてしまうようにならないために、今、喰うんだ』
 生き永らえたいという欲望? 自分に、そんなものがあるというのだろうか。むしろ、自分は……。
『ある。生き永らえたいと願う心がなかったら、そもそも、悪魔を喰い返したりはしなかったはずだ。喰われて終わり、だったはずなんだ。
 だが、あんたは、今、生きてる。その気持ちは、あんた自身が思っているほど、甘いもんじゃない。ひとに迷惑をかけたくなかったら、喰え。こいつを、喰え!』
 由衣は、震える指先を改めてそれへ伸ばした。相手の鼓動が伝わってくるようだ。それは、死にたくない、という相手の呻きのようにも思えた。
 それを、指先で、つまんだ。意外なほどそれは柔らかく、見た目の硬質さとは裏腹に、正体のない感触を備えていた。
 ひねって、千切り取る。その瞬間、塊がまた揺れた。
 由衣は指先に取ったそれを、顔に近づけた。

(続く)