かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『ウルトラマンメビウス』が結んだ無限の環

ウルトラマンネクサス』は、昭和ウルトラをリアルタイムの“経験”として自身の骨格の一部とした元少年たちにとって、待ち焦がれた「ウルトラ」の通過儀礼だった。
 等身大ヒーローを含むTVヒーロー譚は、少年たちにとって価値観の基礎ともなる重要な文化だった。だがその世界観や物語は「こども向け」に誇張されたものだったから、彼らが長じて実社会の住人になると、核の部分以外はまったくの役立たずとなった。
 いや、核の部分すら危うかった。
 たとえその核が真っ当なものであったとしても、そこに加えられた“肉”が貧弱だと、核の価値もまた軽く見えてしまう。
 そんなはずはない、あれは正しい……そう主張したくとも、自身の中の客観性がそれを塞ぐ。「密入国する風来坊が最新最強の装備を駆使できる武装組織の隊員になるような世界で語られる“真実”に、根拠は求めようもない」そう考えるのは、至極当然のことだ。
 だからどこかで「ウルトラ」は、シリーズ全体を下支えできるような「おとな向け」の裏打ちをされなければならなかった。その裏打ちを、俺は通過儀礼と見做した。
 たとえば『仮面ライダー』は、それをVシネマ作品などで比較的早い時期に実現していたが(仮面ライダーの場合、原作マンガの時点ですでに半分は通過儀礼が済んでいたともいえる)、「ウルトラ」でのそれはさまざまな事情によって遅れに遅れた。初代『ウルトラマン』から数えて38年もの時間がかかった。
 それでもそれは、なされた。
 それが『ウルトラマンネクサス』だった。
 ネクサスでは、映画『ULTRAMAN』と連動しつつ、防衛組織の規模や設定、“ウルトラマン”の位置づけ、登場人物らの感性から社会そのもののあり様などにも緻密な考証がなされていた。それらが「ウルトラ」の足を地につけ、「ウルトラ」で語られる核に相応以上の質量を与えた。
 ただネクサスは、その緻密さゆえ、反作用としての陰惨さ――人間を描こうというのだから陰惨にならざるを得ない――を大きく備えることになった。
 その陰惨さは、「ウルトラ」にとってはむしろ排したい要素だった。「ウルトラ」の根拠にある「光への信仰」は、陰惨を滅するためにこそあるといってもいいものだからだ。
 それを「ウルトラ」自体へ組み込んだ時、作品は異形となった。
「ウルトラ」に強い影響を受けた少年たちが、自身の裏づけのために見たいと願っていたウルトラマンは、同時に、最も見たくない要素を含んだものになってしまったのだ。
 しかし、単一の要素で構築される概念は弱く薄い。エホバにサタンがあるように、仏道に魔羅があるように、「ウルトラ」にも対立概念の支えは必要だった。
 その支えが他ならぬ人間自身でもあったというのは皮肉ながらむしろ現実的であり、ゆえにこそそれはシリーズ全体を支え得るものともなった。
 ネクサスを経て、初めて「ウルトラ」は磐石となったのだ。

 ……と、以上はおさらい。
 そうして足元が固まったとたん、『ウルトラマンマックス』ははじけにはじけた。
 なかなかおもしろくありました、マックス。
 懐かしの怪獣宇宙人ロボットのオンパレードもたのしませてもらえたが、そこには初期ウルトラに通じるセンス・オブ・ファンタジーがあった。
 この回帰は別にマックスが最初ではなく、平成三部作とされるティガ−ダイナ−ガイアの線上にもある。
 平成三部作は、ティガが始点となって足場固めと基本コンセプトの確立をにない、ダイナでその足場を駆使したセンス・オブ・ファンタジーを展開し、ガイアで新しいウルトラ像を提示するという構築になっていたと思う。
 ただ平成シリーズは舞台が昭和ウルトラと繋がっておらず、それでいて基本的な世界観は昭和ウルトラと共通だったので、つまり並行して存在するまったく別の世界での物語だったので、昭和ウルトラの裏打ちにはならなかった。基本的にあの三作で、世界は閉じてしまっていた。つまり番外、シリーズの外にある作品群になっているということだ。
ウルトラマンマックス』は、だから、ウルトラシリーズ久々のセンス・オブ・ファンタジー作品であり、かつ足場が落ち着いてから初めてのそれといえる。
 俺なんかは、矛盾があろうがなんだろうが「初代マンの次の作品がマックス」としておきたいぐらいだ。ジャック・エース・タロウ・レオ・80、申し訳ないが全部いらない(なおセブンはもとからウルトラシリーズ中の異形という認識のため、この流れの中に入っていない為念)。
 平成三部作はセブンの後継シリーズとなる独立の作品群で、ネクサスは『ウルトラQ』の次の作品、Qから分岐した別シリーズだと思っている。
 でマックス論が始まるのかと思いきや、すっ飛ばして『ウルトラマンメビウス』へいってしまう辺りが俺の乱暴なところだ。
 メビウスすごい。これはマジすごい。といってもまだ半分しか見ていないが。
 いや半分でも充分すごい。後半いかにショボくなろうとも前半で責務は果たした。
 噂では後半もすごいらしい。
 メビウスは責務を果たした、だって? じゃメビウスの責務ってなんなの?
 それはなんと、昭和ウルトラ世界の再構築だった。
 これにはさすがに驚いた。
 ネクサスで下支えができ、マックスのセンス・オブ・ファンタジーでくつろいだあとに控えていたのは、なんとまあ、昭和ウルトラの総括だったのだ。
 これはシリーズ構成をになった赤星政尚畢生の願いであり大仕事だったのではあるまいか。

 赤星政尚の名を書かせてもらうのは、これで二度めか。
 最初はしばらく前に、ウルトラシリーズ復活の背景を築いた功労者として名を挙げさせてもらった。彼とその周辺のひとびとがウルトラ全面支持の讃歌を高らかに歌ってくれなかったらウルトラシリーズ復権はなかった、と俺は本気で思っている。
 その赤星、誕生は1965年であって、これは初期ウルトラ三部作(Q−マン−セブン)にギリギリで間に合っていない。ウルトラセブンの初回放映終了が1968年だから、その時点で赤星はまだ三歳だ。こども心に「これはすごい」と思っても、理解するには知識が追いついていない。見たとしても、印象だけのものだったろうと思う。
 そして判断力がついてくる頃に時代が動いてしまい、その後ウルトラシリーズ正統派は1971年の『帰ってきたウルトラマン』までおあずけとなる。赤星、来年には小学校入学という頃合いで、タイミングとしてはかなりよい。
 だから客観的には、赤星の本格的ウルトラデビューはジャック以降と考えていいと思う。
 間に『ウルトラファイト!』があり、これは怪獣やウルトラヒーローの奇妙な存在感を思考基盤に盛り込む役目を果たしていたようだが、物語性と絡めてのウルトラはジャックからというのが赤星のスタンスだと思う。
 だから俺風情が“ジャックから80まで全部いらない”とかいっているのを知ったら、さぞ彼は腹を立てることだろうなとは思う。
 思うが、実は赤星も似たような疑念はもっていたのではないだろうか。
 違うのは、俺がウルトラセブンをしっかり知っていたので、それを根拠にある程度は自立できた、という部分だ。
 赤星にはそれがなく、ゆえに赤星はジャック以降のシリーズを特に補強しなければならなかったのではないかと思う。彼自身の通過儀礼として。

 メビウスはまさしく昭和ウルトラの総括・再構築で、遡ってQの時代から80に至る昭和シリーズすべてを同一の世界・同一の時間軸に据え、半ば強引にそれらに整合性を持たせて、ひとつの歴史に組み上げた作品だ。
 メビウス以前の公式設定は、そこはかとなくそういうものだという雰囲気を漂わせていた。だが厳密にそうだと断言し、整合性をもたせたものではなかったと思う。とりあえず俺の知る限りでは、そこまで緻密に組み立てたものはない。
 だがメビウスはそれを実現した。
 これがどんなに大変な作業かは俺にもわかる。
 たとえばの話、科特隊からウルトラ警備隊(地球防衛軍)へのつながりはどうするのか。地球防衛軍は富士のすそ野にものすごい“秘密基地”をもっている。どう見ても建造に数年、いや十年以上の時間がかかっていてもおかしくない施設だ。それと科特隊をどう併存させるのか。
 それぞれのシリーズの時間的な位置もバラバラだ。たとえばウルトラセブンは、番組制作時から二十年ほど未来の世界を想定してつくられたと聞く(この辺の情報はもしかすると赤星本由来かもしれないw)。もちろん正確な年が語られるところはなかったと思うが、たとえばタバコの自動販売機はどう見ても昭和四十年代初めのものではない。一方、ジャックでは当時そのままの年代描写(戦後の記憶のあり様とか)がある。じゃあジャックの時代はセブンより前なのか。
 だいたい防衛隊には、時代が繋がっているならゼットンを倒してしまう無重力弾があったのに、ライトンR30だってあるはずなのに、なぜ平時からそれを使わず無能を晒しているのか。
 そういう山積みの問題を、半ばは力ワザでねじ伏せ、ひとつにまとめあげてしまったのがメビウスだ。これは赤星以外にまとめられる人間はいなかったのではないか。赤星以外に積極的にやろうとする人間はいなかったのではないか。俺がメビウスを、赤星畢生の大仕事と見る所以だ。

 結果的に――というのはまだ早いな、半分しか見ていないからな。ともあれ半分を見た現時点までにおいて、すでにそれは成功したといっていい次元に達していると思う。
 まず時間軸は開き直って放映順とし、放映された年をそのシリーズのあった年とし、その上で(今のところは殊更に表立ててはいないが)各防衛チームに必然性と一貫性をもたせ、さらに「怪獣が頻繁に現れていた時期を経たことで新たに整備し直された社会基盤」を大前提として“昨日まで一般人だった人間がいきなり防衛チームになる”ことまでも整合化してしまった。
 ただし、理念としては80の次の話というかたちになるので、平成三部作・コスモス・マックスはガン無視。平成三部作はとにかくとして、コスモスとマックスを切った覚悟はすごい。
 メビウスは初期ウルトラの世界の再構築に成功し、シリーズの終点となった。と同時に、すべての事情の整備によって世界観を閉じてひとつの輪とし、さらに終点ではなく巡り続ける無限の夢に仕立てた。これまさしくメビウスの輪
 ものすごいことに挑戦したものだ。
 そして(おそらく)成し遂げたのだ。

 これにより「ウルトラ」の実写テレビシリーズには、昭和シリーズ+メビウス、セブン+平成三部作、コスモス、ネクサスと、昭和から並行世界的に存在するであろうマックスという六つの世界観が成立することになる。(アニメ『ザ☆ウルトラマン』と海外制作分、ビデオシリーズは申し訳ないがスルー)
『大怪獣バトル』からウルトラマンゼロが出てきて多元宇宙を行き交うシチュエーションが取り入れられたので(ゼロ以前の多元宇宙往来はイレギュラーとしてのものだった)、それらの世界もそれぞれに繋げられるようになったが、それはまた別の話。とりあえず繋げる前にひとつずつのパーツ(宇宙)は相応に整合性をもたねばならず、それがメビウスで実現されたというのが今日のお話。
 メビウスに至ってついに、あるいはようやく、昭和からのウルトラは完全なフォームを得たのだと思う。
 その作業台をつくったのはネクサス。作業をしたのは赤星政尚。
 このふたつの“仕事”は、「ウルトラ」をあと数十年延命したと思う。いや、もしかしたら廃れない伝説に仕上げた、といっていいのかもしれない。
 大仕事だ。
 本当にこれらの仕事には敬意を抱いてやまない。
 ありがとう。ごくろうさま。
 本当にそういう気分だ。