かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

パワーアップするウルトラマンはキライだ

 タイトルで全部いいきってしまったので、以上で終了。
 というわけにはさすがにいかんかな。別にいいよな。いいけど、なんとなく俺の方が消化不良になるな。

 パワーアップするウルトラマンはキライだ。
 正直、ウルトラマン対怪獣の格闘もあまり好きじゃない。
 もちろん例外は多々ある。
 たとえば、初代『ウルトラマン』第8話『怪獣無法地帯』でのウルトラマンレッドキングの格闘。
 この時ウルトラマンレッドキング相手にスペシウム光線を放っていない。格闘技だけで倒した。なぜか。レッドキングに戯れで殺されたピグモンの痛みをとことんレッドキングに味わわせようという、いわば因果応報あるいは復讐のためだと思う。命を弄んだ者には相応の報いを。それが光線ワザでの、ある意味“安楽”な最期ではなく、とことん肉体を痛めつけられた上での最期だったのだと思う、というより、思いたい。
 同じく『ウルトラマン』第10話『謎の恐竜基地』での対ジラース戦。これには礼儀のようなものを感じた。ジラースも岩を砕く光線ワザをもっている。だが肉弾戦を挑んできた。それに対する礼儀としてウルトラマンは、肉弾戦での決着を選んだのだと思っている。(そのわりに途中でジラースを茶化すような襟巻き闘牛いや闘獣もしていたけどね)

 かつてウルトラの礎を築いた故金城哲夫は、ウルトラマンがなぜ最初から光線ワザを使わないかという問いに対して、説得だ、と答えたらしい。怪獣なり宇宙人なりが破壊や侵略をあきらめ、もとの居場所へ戻る気になるように、拳で説得したという意味だろうか。
 もちろん作劇術としては、ウルトラシリーズにおける怪獣と巨人の格闘はひとつの大きな見せ場であって、だからそうそう削るわけにもゆかない。
 金城による説得説だって、たまたま古谷 敏(ウルトラマンの中のひと)がアクションに慣れていなかったため火やら爆薬やらがかまびすしい特撮の現場で緊張し腰がひけていた、そのポーズからの連想なのかもしれない。
 だがウルトラマンには、格闘のみで決着をつける時もあれば、逆に登場そうそう光線ワザを放つこともあった。それらはもちろん、シナリオの指定によるのだろう。そういう戦い方が必要な物語の組み立てが先にあったのだ。だからこそ、金城説得説にも説得力というものが出てくる。
 だが、本当にパターン踏襲のためだけの格闘は、キライだ。

 そして。
 格闘を挑み、押しまくられて、パワーアップして、最後は光線ワザ。
 こういう戦い方は、下の下だ。

ウルトラマン研究序説』ではないが、ウルトラマンは登場するだけで経済的な被害をもたらす。だいたいが何万トンもの体重がある。道を歩いただけで、その道はつくり直されなければならないだけのダメージを受ける。格闘やらなんやらで建物が破壊されれば、さらにおおごとだ。
 その復興のため、社会全体としては経済が活性化するかもしれない。だがミニマムな視点から見たら、家を潰された市民はどうする。災害への補償はあるだろうが、大したものでもあるまい。結局は自腹で、一生台無しもいいところだ。それに補償だって、理屈でいえば自給自足。被害が出ただけ損になる。
 なら、できるだけ早く決着をつけるのが本当の“人類思い”というものだ。
 いちいち面倒な段取りを踏んでパワーアップしたりせず(しかもこれが二段構えだったりする)、最初からとっとと最強フォームで登場して瞬殺しろ。
 なにを出し惜しみして、市民の被害を増やしているか。
 このすっとこどっこいめ。

 ウルトラマン自身のパワーアップは、遡ればジャック(帰マン)のウルトラブレスレット授与イベントが最初になるのだろう。
 ウルトラマンになってからの変身は、『ウルトラマンティガ』から始まったと思う。だがこれには理由があって、スピード重視型・パワー重視型・バランス型の特性を使い分けるための変身だった。当然ながらスピードを重視すればパワーが落ち、パワー重視ならスピードが落ちる。また、それぞれのフォーム固有の光線ワザも設定されていて、それを使うために変身しなければならない、という必然性もあった。
 続くダイナでは、やはり戦い方の特性が設定されていて、ミラクルタイプのブラックホールなんてのは光線ワザ以上に不気味な強さがあって、よかった。
 単にパワーアップする変身は、ガイアV2からだろう。だがこれにはペナルティがあって、消耗が激しく、ウルトラマンにとってもあまり濫用したくないものという設定があった。
 そういうタガがゆるみ、ただ「オハナシ的に見せ場をつくるだけ」「毎度のオヤクソク状況として」という事情でウルトラマンが“力の出し惜しみ”をするなら、それはあまりにもクソな展開だ。
 侵略する気満々の外来知性体はまだしも、機械相手に基本フォームからの格闘とか、バカじゃねえのか。アタマ使えよアタマを。おまえが出てくるだけで人間社会の損耗は激しいんだから、変心のない機械が相手だったら最初から最強フォームで光線びびーっと当てて破壊してしまえ。迷惑なんだよマジで。
 そういうアタマの悪いシナリオが、あとで災いを生むんだよ。
 せっかく学んだ“核”を自ら否定しなきゃならなくなる、そんな厳しい試練を残すのよ。
 その試練を経て初めてホンモノとか、そんなの大きなお世話だ。
“核”の練り直しなんてのは、人生一からやり直し、ってくらいの一大作業なんだぞ。

 ウルトラマンは、人間が限界までがんばってどうにもこうにもどうにもならない、そんな時に登場する最後の切り札、奇跡のような位置にある。
 だからウルトラマンまでが奇跡待ちをしちゃあ仕方ない。
 その辺の計算も建てずに出てくるんだったら、いっそ出てこずに人間が滅びるのを見ていればいい。それでも生き残らなければならなかった者の後日をどう考えとるのだ。

 そんなわけで、変身してパワーアップするウルトラマンはキライだ。
 大っキライだ。

 じゃあウルトラからなにをどう学べばいいのか、って?
 そのために本編があるんでしょ。
 イデ隊員がなぜずっと愛され続けているのか、へなちょこアマギになぜダンが命を懸けたのか。ダイゴを愛するレナが、自ら機械へ飛び込んだゴンドウが、文字通りに身心を磨り減らし続けた藤宮が、ちゃんと語ってるでしょ。伝えてるでしょ。
 孤門がちゃんと言ってるでしょ。「あきらめるな!」って。
 アタマの悪いシナリオは、そういうものを全部台無しにする。