かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

映画『ワイルド7』観てきた【③ キャラクターと役者さん】

 キャラクターについては、基本的に全部アリとすべきだと思っていました。



 今回も強く感じたんですが、そもそもに原作つき映画っていうものは、映画の監督のものであって、原作とは異なる作品と考えるべきものなんですよね。
 ただし、押さえなきゃいけない部分は、ある。でなければ、原作つきである必要が、ない。逆に、そこさえ押さえられていたら、どう料理をしてもいい。むしろ、その料理の手腕――素材の核心を捉え、そのよさを最大限に引き出す手腕が、原作つき映画が作られる時にその映画の監督に最も必要とされるものなのだと思いますし、その手腕を味わうことが、原作つき映画を楽しむことだとも思うのです。



 では、ワイルドにおける“素材の核心”とは、なんなのか。
 自分はワイルド7という作品を、まず第一に、システムの物語なのだと思っています。
 もともと原作者の望月氏は、ワイルドをみっつのテーマを素につくったのだと聞きました。連載開始当時の少年マンガは、「キャラクターは可愛く」「主人公はひとりで」「殺したりしない正義のひと」というルールに則って作られていたといいます。でも、現実はそんなに単純なものではありません。そこで、それらを全部ひっくり返した、けれど中心軸=少年読者に伝えるべきものはブレていない物語をつくってみよう、と思ったのだそうです。
 だからワイルドは「見た目に怖い」「主人公はグループ」「殺しまくり」。
 でも「信頼を重んじる」「理不尽な力に負けない」「正しいことを知っている」。
 各キャラクターは、その条件に当てはめて作り出されたものだったわけです。



 さらに氏は当初、「人間というものは、どういう死に方をするかによって、その生き方が確定する」「けれどもそれは、必ずしも当人の思惑に沿ったものとはならないのが“現実”である」(意訳)という考え方の下、7人という枠組みは作るが、メンバーはどんどん倒れてゆき、入れ代わる……という展開を考えていた、とも。だから世界とチャーシューは、あんなにも呆気なくリタイヤしてしまったわけです。
 もっとも、作品としてそれが実現されてみると、やはりゆるがせにできない主要キャラクターは、どうしても生じてしまうものです。実際のところ、世界とチャーシューの死後、メンバーが死にそうになると、ファンから助命嘆願の手紙が山ほど届くようになったそうで、結局その後はデカが離脱しただけで最終章までゆくことになっちゃったとのこと。中でも飛葉と草波は、物語に統一性をもたせるためにも、外すに外せないキャラです。この2人がワイルドの中心であることは、間違いのないところです。
 が、それでもやはり重要なのは、“ワイルド7”という“箱”。
 納得のゆかない犯罪が横行しながら、ひとびとが暗黙の了解を取り結んでいるゆえに、あるいはその現実について無知であるゆえに、表面上は平穏に営まれているのがこの社会なのだとしたら、そこにワイルドというオブジェを置いた時、社会に、ワイルドに、なにが起きるのか。それが、ワイルド7という物語の、大きなテーマであるはずです。
 ですからキャラは、その時々で違っていいのです。
 ワイルドという箱に詰める品=キャラは、基本的になんでもアリ。
 冷徹至極な草波隊長、それに反撥しつつもどこか一点で繋がりを見出している隊員たち、というルールさえあれば、どんなキャラをもってきてもいいんだ、ということです。
 そしてそれは実際に、マンガ『新ワイルド7』『続・新ワイルド7』などで、望月氏自身によって実現されています。



 個人的には、原作ワイルドの7人は、なかなか巧妙なバランスになっていると思っていました。オールマイティーのヒーローである飛葉以外のキャラには、それぞれ際立った性格上の特性が与えられていたと思うのです。
 それが具体的にどんなものかといえば、ヘボピー=純朴、オヤブン=侠気、両国=狂気、八百=知性と弱さ、世界=知性と強さ、チャーシュー=謎(w)。後日には、デカの不器用な実直、テルの屈折した功名心、ユキの無垢という要素が加わります。
 これはつまり、ひとりのキャラが備えていてもいい要素を分解し、それぞれに極端に特化させるかたちで、グループが主人公になるというスタイルを、うまくまとめあげたのだと思います。これによってまさにグループそのものが主人公というスタイルが実現できたわけで、この手法は以後、いわゆる戦隊ものに引き継がれます。最近の仮面ライダーがやたら増える傾向にあるのも、同じことかもしれません。



 けれど、それを土台に物語が組み立てられるようになると、以後読者は、たとえばオヤブンが出てくればもう大丈夫とか、両国が活躍し始めると展開が暴走するとかの思考様式を固めてしまいます。キャラがひとつの自律回路として機能し始めて、物語を誘導し始めるわけです。
 そういう事情がある以上、映画に原作と同じ名のキャラが出てきたら、観客、特に原作を知る観客は、映画のキャラと原作のキャラと比較してしまうのが当然のこととなります。
 一方、上記のような特化した要素を割り振ることさえできれば、キャラはまるで違う人物でもいいわけです。『新』では、たとえば八百や世界の要素をクロスや画竜点睛が、オヤブンの要素を水戸っぽが引き継いでいたりします。



 なので今回の映画についても、本当は、草波と飛葉以外はすべて新キャラでいい、と思っていました。むしろその方が、納得ゆく作品になるはずだ、とも。
 ところが羽住英一郎監督は、果敢にも、7人のうちオリジナルキャラは3人にとどめ、4人は原作のままの名で登場させることにしたのでした。
 こうなると、上記の問題が生じてしまいます。すなわち、原作キャラとの単純な比較です。
 これはけっこう厳しい状況ですよ。
 そこへ真っ向勝負をかけたわけですから、監督の覚悟のほどがうかがえるというものです。



 結果的には自分も、やはり映画のキャラを原作キャラと比較してしまいました。
 でもそれは許してほしいなあ。やっぱ原作と同じ名だったら、どうしても比較しちゃうよ。
 というわけで以下、原作のイメージを引きずった印象を列記。
 ああホントいっそ草波と飛葉以外は全員オリジナルキャラでやってくれればよかったのに。




[草波=中井貴一
 思いがけず、もンのすげぇ良かった。
 個人的に中井貴一は、気弱だったり優しいひとだったりする感じなので(『ふぞろいの林檎たち』の印象が未だに拭えないw)、冷たい草波をきちんと演じられるのか、失礼ながら不安に思ってたんですけどね。特に、中井氏の得意な眉根寄せ&下がり眉の表情で、懊悩しつつ語り始められちゃったりしたらヤバいぞ……と。
 でも、そんなシーン、ひとっつもありませんでした。
 常に毅然として酷薄無残。悪党だらけのワイルドの中にあって、その手綱を緩めない徹底的な調教師。頭の回転の速さと度胸を併せ持つ、処刑組織の頭目。そして実は、誰よりも悪を憎む正義漢。中井氏の草波は、そういう印象でした。まさに草波です。素晴らしい。
 少し老けすぎか、という気もしましたが、ワイルドを創設できるだけのキャリアを身につけるには、まああれぐらいはいってないとな、というリアリティが勝ちました。また、それだけ齢食ってるのに、なお悪をとことん排除しようという真っ直ぐな意思を棄てないのか、という、ちょっとゾッとするような迫力もありました。こればっかりは若造には到底、無理でしょうね。
 いいキャスティングだと思いましたし、中井氏本人の役柄への理解の深さも感じました。
 惜しむらくは頬の肉。ちょっと顔が太ってしまっています。下からの煽り構図の時、頬の辺りがたぷっとしてたのには苦笑。草波はもっとキレがよくなくちゃねw
 余談ながらラスト、墓地での台詞は、原作マンガでヘボピー勧誘の時に放ったことばの転用というよりは、TVドラマシリーズ初回ラストに、川津祐介の草波が小野進也の飛葉に言った台詞のオマージュだと思います。



[飛葉=瑛太
 これはキャラ設定が難しすぎた。瑛太氏自身は、与えられた役を十二分に表現していたと思うんですが、そもそものキャラ設定がね……。
 いや、飛葉もまたワイルドの詰め物のひとつだと思えば、問題ないんですが……。
 飛葉は野獣でなければいかん。どうしても自分は、そう思ってしまうのです。
 獲物と定めた相手の首根っこからは、袋叩きにされて気を失うまで両手を外さないような、ある種狂人めいた強い意思の持ち主。彼はまた、生存への強い欲望も持ち合わせ、ギリギリまで生き残ろうともします。けれどけっこう意地っ張りというか、命より大切なものがあるという部分ももちあわせていて、目前に自身のルール(意地)に反する状況が現出すると「俺っちのことは見捨ててもいい、そいつを殺せ!」と絶叫したりもします。
 よーするに、熱いのです。
 そういう飛葉が、目的を見失って人形同然に任務だけを待っていてはいかんのですw 任務に当たっている時だけは生の実感を得られる、なんて思ったらいかんのです。
 まあ、かといって、最初から熱さ全開では、物語にならないっていえばならないんですけどね。警察官とはいえひとごろしには違いないんですから、相応の背景も必要ではありますしね。原作ではそれを、裡なる正義と生存本能にあずけていた部分があるんですが、映画ではそうもいかなかったということでしょうか。
 いずれにせよ瑛太氏は、そういう具合に組み立てられた飛葉を、ちゃんとその通りに表現してました。いい役者さんですよね。自分が続編を待ちたいのは、彼が「目的を得て、改めて生き始めた」飛葉をどう演ずるのか、それをこそ見てみたい……という理由にもよります。



[セカイ=椎名桔平
 これもまたキャラ設定がなあ……。
 いやね、原作の世界を思わせる名前がついてなきゃ、すごくイイと思うんですけど。うん。彼こそホントに、違う名前で出てたらよかった。
 静かな、ごく静かな引き際は、オーラ出まくりでした。また、空港の場面での、一般客たちを巻き添えにしないための威嚇射撃の機転は、智将としての性格づけをよく表現してました。もったいないなあ、なんかすごくもったいないよなあ……。



[ソックス=阿部力
 活きてなーい。設定も役者も。なのに真ん中に入る場面が多いー。なんなんだー。
 前章でも触れましたが、役者さんも設定も魅力的なんだから、もうちょっと違う見せ場があってもよかったんじゃあないかー。
 もっとも、イカサマコインの場面そのものは、とてもよかったんですけどね。グループの中でも一番クールな印象の彼が、一番“仲間”を思いやる行動を採る……ってのは、よかったと思います。
 まあ続編を待ちましょうかね。PDFみたいな恰好をした超高性能端末使って公衆電話からいきなりクラッキングしちゃうとか、あるいは敵の女をたぶらかして情報をゲット(でもあとでその女を引きずるw)、または草波を追い越して事件の全貌を見抜く……ぐらいの見せ場を期待したいところです。



[ヘボピー=平山祐介、B.B.Q.=松本実]
 このふたりは、草波以上によかった!
 メンバー中、最も巨漢のヘボと、最も小柄なB.B.Q.(バーベキュー、ではなくて、ビー・ビー・キューと発音してた。もしかすると踊るポンポコリンかもしれない)(いやそんなこたぁ金輪際ありませんが)。なぜかすっごく気が合うらしい。それぞれ好き勝手なことやりながら、肝心なとこではけっこういっしょにいたりします。そのじゃれあいっぷりが、まず絶品。腐の方が喜びそう。もちろんB.B.Q.攻で。
 B.B.Q.はね、特によかった。ティーザーで見た時、ルックスとか行動の印象が両国的だなあと思ったんですが、あとから名前を知って「これチャーシュー?」。結局は最初の印象通り、両国でした。火薬は扱わないけど。
 個々の性格づけ、ヘボは残念ながら今ひとつ前に出てませんでしたが、ラストの激闘シーンで、被弾したB.B.Q.を命懸けで助けようとするシチュエーションのヘボっぽさは、すごくイイ感じでした。ちゃんと熱かった。純朴だった。『緑の墓』のオマージュかな、あれは。
 B.B.Q.は、前述通りバッチリくん。
 短気でルイクなキレっぷりや、メンバー同士がモメている風の場面でニヤニヤしながら「わぁってるってよ、おまえさんたち。なぁんでそういう言い方しかできねえの?」と言いたげに周囲を見回してる様子とか、もう出色。(そのすぐあとに、話し合いの結論を勝手にダイジェストしてヘボに伝えにゆく)
 B.B.Q.、一番ワイルドらしいキャラだったかも。
 放火犯だからってことでしょう、炎のような赤い髪もにあってました。
 ヘボとB.B.Q.、どちらも原作のエッセンスをうまく活かしましたね。名前やルックスが違っていてもエッセンスが活きていればオーライの、見本みたいな2人でした。



[オヤブン=宇梶剛士
 んー、まあ、親分。オヤブンというよりは、親分。
 セカイのとこでも触れましたが、別に名前は原作とかけ離れていてもよかったんじゃない? と思いました。存在感はものすごくあるしね。でもオヤブンは、片手でグレネードランチャーは撃たないよ。それをやるのは馬力本願だな。
 原作オヤブンの持ち味は、意外な頼りがいだと思います。普段は軽いし、大丈夫なのかよ、と思うようなおっちょこちょいさんですが(その行動とオヤブンって名前のギャップが、原作のツボだったんだと思う)、いざという時には体を張って仲間を救う、土壇場のヒーロー。火事場のバカ。それが原作のオヤブン。
 宇梶氏、ご本人はマジ頼りがいの塊なんじゃないかと思います。でも残念なことに映画の中では、それを感じさせる場面も、演出もなかった。もったいないなあ。存在感の無駄遣いじゃん。宇梶氏には、もっといい出番を期待してたのに。それとも編集で削られちゃったのか?
 あ、でも、パイソンの使い方は上手でした。このひとモノホン? と思わせるような板つき具合。ガンスピンはどうでもいいんですが、構え方とか撃ち方そのものとか。スピードローダーの使い方にわずかなぎこちなさはありましたが、あれ難しいんだよマジで。あれだけできたらすごいよ。リボルバーの弱点をそうとは感じさせない迫力は、かなりのものだと思います。



パイロウ=丸山隆平
 これは正直、困った。役どころは両国なんですが、クールすぎる。
 まあ制作の都合上、重要な役柄に婦女子を呼べる役者さんを、って思惑はあったのかもしれないし(現に正午からの上映なのに、しかもアクション映画なのに、制服姿のじょしこーせーが客席にいたよ。あれはきっと丸山ファンに違いないw)(まあ阿部ファンという説も棄てがたいが)、小柄な松本氏にはそもそもサイドカーのコントロールは物理的に超困難(無理とはいいませんが)、という考えもあったのかもしれません。
 でもなー、カッコよすぎるんだよな。
 おまけに、爆発物の専門家、ということ以外、目立つ場面も特にないしね……。
 つか、爆発物の専門家でクールっつったら、破綻なさ過ぎて却って目立たないと思いません? キャラづくりの王道は、竹熊健太郎氏が看破した通り「A“なのに”B」なんですよ。「ケンカに強い、なのにカエルが苦手」みたいな。「A“しかも”B」では、面白みがないよ。(でもそれって、丸山氏のせいじゃあありませんからね念のため。プリプロの問題です)



 ともあれ、例のちょーヤバいサイドカー(無反動砲積んでる)の活躍の場面は、ふたつばかりありました。バイクアクションでは、サイドカー部分を持ち上げての急ターンなんてのもあったりして、「うぉうワイルド!」って感じもしました。



[ユキ=深田恭子
 これはかなりよかった、というよりはおもしろかった。
 役名を含めて設定流用はあれど、原作のユキとはまるっきりの別物です。けれど、ユキのキモである“無垢”は、きっちり備えていて、にもかかわらず原作を引きずっていない、その上ちゃんと存在感もあるという。別に自分、深キョンファンではないんですが、深キョンユキは強く支持します。
 もともと原作では、ヒロインの立場にあるべき女性が、イコとユキに分裂しちゃってたところがあります。飛葉に守られるべきイコ、逆に飛葉を守ろうとするユキ。ヒロインとしてどちらも魅力的だったわけですが、2人ではどうしても散漫な印象にはなってしまいます。それを統合しつつ、今風の味付けをして……って感じはありましたね。いきなりおとなの関係になっちゃう辺りも、今風といえば今風なんだろうなあ。
 深田嬢、細かい演出とかもさらりと受け入れこなしている感じで、ドロンジョ様の時よりずっと“らしい”雰囲気を放っていたと思います。
 次回は、せっかくユキなので、ぜひとも対戦車ライフルを積んだオートバイで登場していただきたいものです。