かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#2 図書室のこと。】-02

(承前)

 それから一週間ほどたった頃。
 その日も僕は当然、図書室に寄っていた。
 あれ以来僕は、図書室に入ったらまず窓から校門を確かめ、出る時にもまた確かめるようにしていた。
 黒い人影に初めて気づいたあの日、校門を通って外に出る時に、僕はちょっとじゃなく緊張した。塀の向こうに、あの黒い人影があったらどうしよう。そう思ったからだ。
 でもそれは、見当たらなかった。翌日も、翌々日も。登校の時も、下校の時も。
 僕はその都度がっかりしたし、ほっともした。あれがなんなのかしっかり確かめたかったからだし、かといって本当に目前に現れてきたら気味が悪いとも思っていたからだ。
 いや、ただ気味が悪いだけのことじゃない。もし、ほかの誰にも見えないのに僕だけには見えるとなったら、それは異常だ。僕はすると、狂気に取り憑かれてしまったことになる。それはちょっとイヤだ。
 僕は、僕自身が狂気に蝕まれるのは遠慮したい。でも、もしあの人影が見えてしまったら、あるいはそれは僕の狂気の証明にもなりかねない。そう思うと、確かめたい気持ちと見たくない気持ちのバランスは、かなり見たくない方に寄ってくる。
 とはいえ確かめたいという気も、弱くはない。時には、狂気なら狂気でかまわないからハッキリしてくれ、という気分にもなったりした。
 そんなことばかり気にしているから、受験のための勉強はますますはかどらなかったし、夜の眠りも浅くなった。寝つきが悪くなったし、夜中に突然目が醒めたりもした。
 そんな時には、いい年をしてどうかとも思ったのだけれど、目を開かないようにしていた。開いたら、ベッドサイドにあの黒い人影が立っていそうで、開けられなかったんだ。
 そしてその日、何度も肩すかしをくらった先のその日。
 僕は再び、見つけてしまった。
 あの影が、現れたんだ。
 それは今度は、校庭に出た。門の陰に隠れたりはせず、あまりにも堂々と、校庭のど真ん中に突っ立っていた。
 まだクラブ活動をやっている時間帯だ。実際にその日も、陸上部員はトラックをぐるぐる走り回っていたし、テニス部は片隅に固まって素振りを、ハンドボール部はパスダッシュを何度も繰り返していた。
 そんな風に活動するいくつかのクラブが、互いに邪魔し合わないように距離をおいた、その中間地帯に、黒い影は、いた。
 でもそれは、誰にも認められていないようだった。誰ひとりとして、そこを――黒く澱んだ場所を、見てはいない。いや、そこが澱んでいるということに、気づいてもいない。校庭の、あんな目立つところに人影があるというのに!
 そう、それは、その時にはもう間違いなく人影になっていた。周囲を澱ませる、ひとの姿をしたものに見えていた。
 ただ、どっちを向いて立っているのか、それがわからない。こちらに背を向けているのか、それともこちらを見ているのか。少なくともそれは、横を向いているわけではなかった。なぜって僕には、確かにそれに二本の脚が生えているのが見えたからだ。
 僕は窓から、そいつをじっと見た。目に意識を集中して、見続けた。
 そいつは狂気のかけら、僕が壊れていくことのきっかけになるものなのか? それともまた違うことへ結びつくものなのか?……見極めなきゃいけない。僕にはそれを確かめる必要がある。見なけりゃいけない。
 そんな気持ちでじっと見続けるうち、思いがけないことが起きた。そいつを取り巻いていた空気の澱み、どんよりと黒い蒸気のようなものが、次第に晴れていったんだ。
 それはゆっくり、ゆっくりとしたことだった。そして澱みが消えるにつれ、その中の人影が、少しずつ色を帯び始めた。
 黒い人影は、もう黒くなかった。暗色であるには違いなかったけれど、彩りを備えたものになっていた。そうなると、最初に感じて怯えたような不気味さは、だいぶ薄まった。
 その姿を確認して、僕は少し意外に思った。
 というのもそれが、僕と同じぐらいの年頃っぽい女の子だったからだ。
 スカートこそ履いていないものの、ぴったりと体の線に合ったズボンに包まれた脚の線は、どう見ても男のものじゃなかった。たっぷりとしたコートを羽織っていて、そのシルエットはやっぱりどこかぼやけていたけれど、それでも僕には、“彼女”が両手をポケットに突っ込んでいるのがしっかり見えた。
 そして彼女は、こっちを見ていた。いや、真っ直ぐに僕を見ていた。
 それがわかった頃には、彼女が髪をポニーテールにまとめていることとか、意外に小柄だということ、襟元にはワインカラーのスカーフみたいなものを巻いていることなんかも見えるようになっていた。
 僕は“見えた、やった!”と思いながら、今度はまた違う不思議さを感じていた。
 それは、彼女がそれほどはっきりと見えたことだ。
 自慢にもなんにもならないけれど、僕は目が悪い。昔はよかったけれど、本をよく読むようになってから急に悪くなった。今はもう、左右とも0・6ぐらいしか視力はないと思う。
 でも僕は、面倒だから眼鏡は使っていなかった。だから本当は、校庭の真ん中に立つ誰かのスカーフなんか、はっきり見えるはずがない。見えちゃいけないんだ。
 なのに、見える。見えてしまった。
 やっぱり狂気なんだろうか、と思わないこともなかった。でもその時には、僕はすっかり彼女の存在を疑っていなかった。彼女は間違いなくそこにいるもの、と確信していた。
 彼女はずっと、僕を見ている。それも間違いないと思った。
 ただ、それなのに彼女は、僕が彼女をじっと見返していることには気づいていないように思えた。視線は明らかに合っているはずなのに、その目に感情めいたもの……いやもっと単純に、目が合った時にひとが見せる反応のようなものが、まったくなかったからだ。
 僕は少し考えた。どうしようか。図書室から出て、彼女に近づいてみようか。それともここから、手でも振ってみようか。
 結局僕は、手を振ることにした。なぜって、図書室から出て、廊下を歩いて、階段をおりて靴を履き替え……そんなことをしていたら、彼女が消えてしまいそうな気がしたからだ。こないだだって、ふと目を逸らした隙に、彼女は消えてしまっていたのだから。
 僕は右手を持ち上げ、彼女に向けて、振った。
 その時だった。彼女は初めて僕の視線に気づいたように、全身で反応をした。
 まるで、ぴょんと跳ねたように思えた。
 そして、途端に彼女の様子が変わった。
 それまでは傍若無人というか、飄然としているというか、周囲のことなんか一切気にしていない風だった。なのに僕が手を振ってからは、急に周囲をきょろきょろ見回したり、肩を縮め、身を竦ませたりし始めたんだ。
 僕は考えた。今の彼女のようすを表せることばがあったはずだぞ。びくびく? 違う。もぞもぞ? それも違う。なんだ、ええと……おどおど。そうだ、これだ。彼女はおどおどしている。僕に手を振られて、彼女はおどおどしているんだ。
 そして彼女は、後ずさりし始めた。
 少し顎を引き、僕をじっとにらみあげたまま、少しずつ後ろへ、校門の方へと、じりじり下がっていく。
 僕は迷っていた。追いかけるべきか、このままじっと見ていた方がいいのか。追いかけたら、引き留められるかもしれない。そして彼女の正体を確かめられるかもしれない。
 けれど、気づかれていない時でさえふわりと姿を消してしまった彼女のことだ。僕が気づいたと知った今では、僕が追いかけていく間になお鮮やかに姿を消すことだろう。
 彼女から目を離さずに追うには、この図書室の窓から飛び下りるほかに方法はない。でも、そんなのはまず無理だし、そうしたからといって彼女に追いつけるとも限らない。
 どうする、どうする……迷っている間に、その場面は訪れた。
「あ、危ないッ!!」
 僕は大声を出してしまった。後ずさる彼女は、いつの間にか――いや、当然といえば当然のことなのだけれど――、ハンドボール部がパスダッシュを繰り返している辺りにまで進んでいってしまっていたんだ。
 体操着姿のふたりが、ボールを投げ合いながらかなりのスピードで走っている。その進路には、彼女がいる。けれどふたりとも、彼女に気づいていない。見えていないのに違いない。彼女も気づいていない。
 ぶつかる!
 ……はず、だった。
 けれど、ぶつからなかった。
 僕に見えたのは、ハンドボール部のふたりのうちひとりが、彼女のいる場所を走り抜ける姿だけだった。
 その瞬間、彼女は、消えた。
 さっき、彼女の周囲にあった黒い澱みが消えていった、その過程を早回しのビデオで再生したみたいに、彼女自身が消えた。
 僕は見た光景が信じられなくて、少しの間、窓際の棚に乗りあがるみたいなかっこうで外を見ていた。後ろから肩を叩かれて、僕はやっと自分の姿に気づいた。
「あ、その……どうも、すみません」
 肩を叩いた司書の先生に謝りながら周囲を見回した時、机に向かっていたいつもの女子が、僕をにらんでいるのが目に入った。
 また、やっちゃった……。彼女、きっとずいぶん僕のことを嫌ったんだろうなあ。
 そう思うと、僕はなんだかすごく寂しくなった。あの連帯感、図書室仲間の連帯感が、急にしぼんでいくような気がしていた。

(続く)