かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【Ringo the Wight/#1-11】

(承前)

「ぉおぉらァ!」
 大声を挙げて、格下がリンゴーに飛びかかる。片刃のナイフの、ブレードは上向き。刺さった後で刃が微妙に滑り、内臓に大きな損傷を与える握り方だ。そのままナイフの先端が、真っ直ぐリンゴーのみぞおちに突き出される――。
 リクは息を呑んだ。が、ナイフが体に刺さる直前、リンゴーは大きく横に飛んで、その切っ先を避けていた。
「この野郎!」
 かわされたことに腹を立て、格下はなおリンゴーにナイフを突き出す。さっきから怒りを煽られて、格下は最初から冷静さを失っている。自然とアクションは大振りになり、無駄も多い。あれでは刺せるナイフも刺せないだろう。
(……それを狙ってた、ってのか?)
 再びコンテナの上にかがみ込みながら、リクは目を丸くしていた。
 格上と格下、そのランク差はそのまま人間の器の差でもある。当然、格下の奴は、単純な挑発にも乗るだろう。そして格上は、自ら手出しはしないものと相場が決まっている。
 となると、格上を怒らせたところで、実行するのは熱くなった格下。もし格上が自分で向かってくるなら危険は増すが、少なくとも最初のやりあいでそれはない……リンゴーはそう読んで、最初から高飛車な態度に出ていたというのか。
 リクが驚いている間にも、格下は右へ左へといなされて、息を切らし始めていた。
「おぉい、ちゃあんと見ているかあ?」
 リンゴーが大声で叫んだ。
「ビラン……じゃなくて、なんだっけ。ここいらシメてる若いあんちゃん。ちゃあんと見ているかぁい? これが連中のやり方なんだよ。よぉく思い出さなきゃ、駄目だよっ」
 叫ぶなりリンゴーは、突き出されたナイフを避けて身をかがめた。
 同時にひょいっと伸びたリンゴーの長い脚に、格下ヤクザは片足を払われた。
「うわ」
 勢い余ってよろける格下、その真後ろにリンゴーが素早く立ち上がる。そしてリンゴーは、グイッと右脚をもちあげ、膝を胸元に引きつけた。
 その脚をごく軽く、ポンと前に繰り出す。
 リンゴーの足の裏が、格下の背中を、ほんの少し押した。
「わったったったっ」
 完全にバランスを失った格下は片足でぴょんぴょん跳ね飛び、数mもつんのめった挙げ句、受け身も取れずにそのまま転んだ。
「ぐぅっ」
 無様なうつ伏せになった格下が呻く。
「い……いてぇ……ううーッ」
 そのままゴロリと寝返りをうち仰向けになった格下の、体の真ん中に、今し方自分で振り回していたナイフのグリップが、にょきっと生えていた。
「ありゃ」
 リンゴーがぼそっと呟く。
「見事に自爆しちゃったね、このひと。まるでご都合主義の小説みたいだ」
 驚きも感慨も、少しもない声だ。
 むしろリクの方が驚いていた。
(あれって……あれって、やべぇんじゃないのか!?)
 体の真ん中、みぞおちの辺り……ということは、胃袋。
 胃袋を直接に裂いてしまったら、すぐに病院に担ぎ込んでも、助かる率は低いという。裂けた胃袋から溢れ出る胃液が内臓にかかったら、もうどうしようもないというのだ。
「ぃいぃいぃ……痛え、いてぇえぇ……」
 呻きながら格下は、両手でナイフを握りしめ、抜いた。
 途端に、饐えて苦い厭なにおいが、リクのいる辺りにまで飛んできた。
(あ、バカ……)
 抜いてしまった。刺さったままなら、ナイフ自体がふたの代わりになって、胃液の流出を押さえていたかもしれない。けれど、抜いてしまってはもう駄目だ。しかも見ていた限りでは、抜く時また余分にブレードが走ってしまっている。傷口を、自分で大きくしてしまったのだ。
 もう間違いない。胃が、破けている。
 見る間に格下の顔色がどす黒く変色してゆく。上げる声も、うう、ううという、低い唸り声だけだ。
 筋を切った時の声というものは、甲高いものになりがちだ。低い声は、内臓を傷めた時の声――。
「まあ、つまり、だ」
 リンゴーは、けれど、そんなことなど全然関係ない、といった態度で格上を振り返った。
「あんたもけっこう、安っぽい部下を抱えてた、ってことだね」
 格上が目をまん丸く見開いている。
「さて、どうだい? 俺の要求は飲んでいただけるのかな。未来永劫、この街には手を出さないって件だが」
 リンゴーは言って、肩越しに親指で、床を転げ回っている格下を示した。
「あいつ死ぬよ。放っておくと、わりと早く。それでもいいってことかな?」
 む、む……と格上が唸る。それを聞きながらリンゴーが、あの冷たい笑みを浮かべた。
「……やっぱなぁ、そうだろうなぁ。あいつの吐く息は苦いにおいがしたぜぇ。薬のにおいだよ。キメちゃあいけない薬のにおいだ。大事な身内には、絶対に使わせない薬のにおいだ」
 言ってリンゴーはヴィレンを見た。
「なあ悲恋のあんちゃん。見ての通りだ。あんたもすぐに、ああいう扱いを受けるようになるんだよ。だから、そいつの言うことを鵜呑みにしちゃいけない」
 一転して、笑みには優しさが滲んでいた。
 格上が叫んだ。
「い、い、いや! あんなのは嘘だ、嘘っぱちだ!」
 声が明らかに上擦っている。
「むしろこっちが被害者じゃないか! いいぞ、闘おうじゃないか出るところに出てな。おまえがウチの若い者を殺した、それが法廷の出す結論だ!」
 リンゴーは焦りもせず、ほう、と唇を尖らせてみせた。
「いいの? そんな悠長なことやってて。これで法廷沙汰にしたら、このエリア取り込むの、また一年がとこは遅れるよ。あんた、この十二年を背負ってきてるんだろ? もう一刻の猶予もないと思うが」
 再び格上が唸る。
「いずれにしても、さ」
 リンゴーが大股で格上に歩み寄り始めた。
「今日の“儀式”は、ご破算だよ。あんたは彼の血判を持ち帰れない。そしてあんたは、役立たずとしてボスの罰を受ける……」
 気圧されて格上がじりじりとあとずさる。
「お……おい! おい、ヴィレン!」
 格上が上擦った声で叫んだ。
「こいつを、こいつを殺れ! さっき渡したやつでこいつを始末しろ! そうしたら、そうしたら……そうだ、地区の総ボスに推薦してやる! いい話だぞ、こんな話、滅多にないぞ!」
 言われてヴィレンが、びくっと全身を震わせた。
「やれ! 撃て! 簡単だ、こいつを狙って指先をちょっと動かすだけだ! ヴィレン!」
 ヴィレンは突然のことに、ただリンゴーと格上をかわるがわる見るだけだ。
 リンゴーは眉を八の字に寄せ、やれやれ、と声に出した。
「まぁったく、セコい旦那だねえ。最初から狙ってたんだろ? 本当は手下に刺させる気はなかったんだ。脅させるだけのつもり、だったんだろ? そして最後は、このあんちゃんに撃たせるつもりだったわけだ。撃った者の手に火薬の燃えカスが残る装薬銃でね。そうすりゃ面倒な契約もなにも要らない、いきなり宿願のエリア奪取成功だよねえ」
 だから、と言葉を継いで、リンゴーはヴィレンに言った。
「捨てちゃいな、そんなもん。なんだったら俺がもらってあげるから。キミにゃ似合わないよ、人殺しの道具なんてのは」
 リンゴーは歩く向きを変えて、ヴィレンに近づいた。あの大きな手を差し出して、銃を受け取ろうとする。
「あ……」
 喉から搾り出すような声を、ヴィレンが漏らした。
 リンゴーを見るヴィレンの目に、尋常ではない光が宿っている。追い詰められた獣の目の光だ。ギリギリの選択を迫られている、生死の際の目の光だ。
 格上が再び怒鳴る。
「聞こえないのかヴィレン! そいつを殺れ! そうすればすべて、片がつくんだぞ!」
 リンゴーはそれを聞き流し、宥めるように、ことさらに大袈裟な笑みを浮かべた。
「大丈夫、キミにはなにもしない。後のこともどうにかする。さあ、そいつを渡してくれ」
 そしてさらに一歩、ヴィレンに近づく。
「う、う、あ……」
 リンゴーは立ち止まり、手を伸ばして、ヴィレンの目を見た。
「うわあぁーッ!!」
 ヴィレンは叫ぶなり、持っていた銃をリンゴーに突きつけた。
 リクは立ち上がった。
 格上が歯を剥き出し笑った。

 バン!

 耳を聾する大音響が、倉庫の中に響いた。
 リンゴーの胸の左側から、真っ赤な血の大きな玉が、ひと粒、ふた粒、糸を引いて弾け出る。
 リクの目に、ゆっくりと、まるでハイスピード撮影の映像のようにゆっくりと、後ろに吹き飛ぶ、リンゴーの細い体が、映った。
 どさっ、と、床に落ちる。そのままリンゴーは、ぴくりとも動かない。
「ば、ばかやろーッ!!」
 リクは叫んでいた。目撃者もなにも、もう関係ない。
「なにやってんだ! なにやってんだよヴィレン! なんで撃つんだよォッ!」
 リクはコンテナの山から駆け下りた。格上ヤクザは、予想もしていなかったギャラリーの存在に、ただ口をぱかっと開けている。
「あ……あ……あ……」
 駆け寄るリクを見て、ヴィレンはその場にがっくりと膝をついた。その手から、まだ煙を漏らす装薬銃が落ちて、ゴトッと硬質な音を立てた。

(続く)