かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【Ringo the Wight/#2-01】

(承前)

 ドアの上に灯っていた“手術中”の赤い文字が、ふっと消えた。
 その文字看板をじっと見つめていたリクが、背もたれのない廊下の長椅子から、バネ仕掛けの人形のような勢いで立ち上がった。
 リクの表情が険しい。いや、表情だけではなく、まとっている雰囲気も厳しい。うっかり話しかけようものなら、言葉の代わりに拳の返事が戻ってきそうな感じだ。
 そのリクの視線の先にあったドアを押し開けて、手術室の中から、ひとりの男が出てきた。でっぷりと太った巨体を、緑色の手術着に包んだ大男だ。
 リクはその大男に駆け寄り、怒鳴るような大声で呼びかけた。
「先生! クワック先生!」
 クワックと呼ばれた緑色の大男は、顔を覆っているマスクを片手でむしり取るなり、怒鳴り返した。
「おいリク! なんでぇ、ありゃあ!」
「なんだって、なんだよ! それよか先生、リンゴーはどうなんだよ!」
「どうもこうもあるか! 医者生活二十年、俺ぁあんな難儀な手術は初めてだったぞ!」
 リクの顔色が、さっと青ざめる。
「じゃ……じゃあ、リンゴーはそんなに大変なことに……」
 大男は、その豊満な二重顎をぶるんと震わせながら、いかにも尊大にふんぞり返った。
「ああ、大変だったとも。今時、背中に鉛玉背負って来るってこと自体マトモじゃあない。だが、それを取り出そうとメス入れてるってぇのに、切るそばから傷が塞がっちまうなんてのは、本当に初めてだ。仕方ねえから、切ったらすぐ鉗子突っ込んで口を拡げてやった。そのまま紐で鉗子引っ張って固定だ。そうでもしねえと、いつまで経っても処置が進まねえんだからな」
 リクがぽかぁんとした顔になる。
「そうだよ、やっこさんは……リンゴーっていうのか? ありゃあどう考えても、人間じゃあねえよ。あの回復力、ってより再生力は、原生動物並みだ。原生動物、わかるか? アメーバとかゾウリムシとか、ああいう連中みたいな野郎だ」
「……てことは、リンゴーは……」
「死ぬほど元気だ」
 リクの顔がパッと明るくなった。
 それを見て大男は、頭にかぶった帽子もむしり取りながら、にぃーっと笑った。
「いろいろと詮索してえことはあるが、まあそりゃ後で、やっこさんも目を醒ましてからにしよう。まったく世の中、妙なやつがいるもんだ。もし俺がでかい企業や学校の研究者だったりしたら、絶対やつを手放さねえぞ。あんな珍しい体質のやつぁ、手元に置いとくだけでなんぼでも論文にできる。金もぼこぼこ儲かるに違ぇねえ」
「……金がぼこぼこ?」
「おうよ。金がぼこぼこだ」
 大男は、不審そうに見上げるリクの視線を気にもせず答えると、だいぶはげ上がった血色のいい頭を、大きなぷくぷくした手でぺちぺち叩きながら、右へ左へ首を曲げた。その度に首筋から、コキコキと固い音がする。
「ま、俺ぁそんなもんにゃ興味ねえ。だからこんなとこで開業医やってるんだしな。ようするに俺にゃ、あいつも手間のかかる妙な患者のひとりだってだけのことだ。
 とにかく手術は済んだし、あいつの回復力からすりゃあ、ものの十分かそこらで目も醒ますだろう。四号室に運ぶようにしといたから、会いに行ってやれ」
 リクは「わかった」と言ってから、視線をすっと落とした。
 大男の膝の辺りを睨みつけたまま、ぐび、と喉を蠢かせて唾を飲み込み、唇にキッと力を入れて、鼻だけで大きく息を吸い込む。
 そして、一度背筋をしゃんと伸ばしてから、直角に近いほど腰を折り、頭を下げた。
「ありがとう、先生。本当に。今回ばかりは、恩に着る」
 大男は少し背をかがめて、リクの頭を上からぱむぱむ叩き、がはは、と笑った。
「気にすんな。どうせまた事情もあるこったろう。後で俺も行くから、そんな最敬礼はやめてくれ。こっちが気持ち悪くならぁな」
 それを聞くなりリクはぴょいと頭をあげ、にかっと笑い返した。そして親指を立てた拳を上げ、「じゃ、な」と言って、長椅子に座ったままのヴィレンを振り返った。
「助かったってよ、全然大丈夫だってよ。行こうぜヴィレン。四号室だってさ」
 青白い顔でずっと様子を見ていたヴィレンが、「ああ」と生返事を返し、立ち上がる。
「ああ、おい。廊下は走るなよ。それからなあ、俺はクワックじゃねえ、クラークだよ。これを機会に、ちゃんと呼ぶようにしてくれ」
「ああ、そのうちな」
 リクは軽く答え、ヴィレンと連れ立って病室へと足早に向かった。
 その後ろ姿を見送りながら、大男クワック――クラーク医師は、ふうん、と感心したような声を出した。
「あのガキがあんな風に笑うのを、俺ぁ初めて見たぞ。いったい何事だ」
 そして、まだ短い毛が少しは残っている後ろ頭をぺちぺち叩き、今度は肩をコキコキと鳴らしながら、手術室へ戻っていった。

「とにかく俺はよ、驚いたんだからよッ」
“4”の字が大きく書かれたドアの内側から、少し高い、大きな声が漏れてくる。
 部屋の中にはベッドがふたつ。ひとつは空っぽだが、もうひとつにはリンゴーがうつ伏せに寝かされていた。
「病院に着くなり“ああ、ここなら良さそうだ”って言って、そのままいきなりぶッ倒れるんだもんなあ」
 しゃべっているのはリクだ。ベッドの横に置かれた椅子に座っている。隣には、同じように椅子に座って、ヴィレンがおとなしくしている。
「ああ、すまなかったね。痛いのと、けっこう出血が多かったのとで、さすがに気が遠くなっちゃってねえ」
 うつ伏せで首だけを横に向けた、かなり苦しそうな姿勢でリンゴーが答える。眉が八の字なのは、その姿勢の無理のせいだろうか。
「でもよぉ、先生が怒ってたぜ。手術しにくい体だ、って。あんた、本当に死なない体だったんだなっ。倒れた時には俺、マジでヤバいって思って、死なないなんてフカシかと思ったんだけどさっ」
「おぉいリクぅ。声がでかいよ、背中にびりびり響くよ。少し落ちついてくれよう」
 リンゴーが口を∧にして言う。リクは、あっ、と声を出し、黙り込んだ。
 その極端過ぎる反応に、リンゴーは苦笑を浮かべた。
「いや別に、黙らなくてもいいんだけどね。そう、確かに変わった体質ではあるんだけれど、痛みを感じないわけじゃないし、絶対に死なないってわけでもないみたいだからね。倒れる時には、倒れちゃうんだよ。心配させて、すまなかった」
 ゆっくりしゃべり始めたリンゴーの様子に安心したか、リクもまた、声のトーンを少し落として話し始めた。
「うん。いや、俺なんか全然大丈夫。でもさ、リンゴーってさ、よくわかんないけど、とにかく珍しい体質みたいだよな。先生も言ってた、学校とか企業とかにはいい金づるになる、ってなことを」
「いい金づるに……?」
 その時、わずかにリンゴーの顔色が曇った。けれど、かなり昂揚しているらしいリクは、その微妙な変化には気づかなかったようだ。次第に声を大きくしながら答える。
「うん。でも先生は『俺ぁそんなのに興味はねえ』とか言ってたけどね。そりゃそうだよな、金が欲しけりゃ、こんな“下”で開業するはずなんかねえもんな」
 それを聞いてリンゴーは、ふむ、と少し安心した顔つきになった。
「ヴィレンも心配してたんだぜ。真っ青になっちゃってさ、しゃべりもしなくてさ」
 リクの言葉に、ヴィレンがびくっと身を竦める。
 ヴィレンの顔色は、まだすぐれない。肩もがっくり落としたままだ。大柄なはずの体格が、ふたまわりも小さく見える。
 リンゴーはあまり自由にならない首をひねって、ヴィレンを見た。
「ええと、なんだっけな、ヴィ……そう、ヴィレンだね。そんなに落ち込まなくてもいいんだよ。この通り、俺は生きてるんだしね。ありゃ事故だ、仕方のないことだったんだから」
 リンゴーに言われてヴィレンは顔をあげ、ほんの少しだけの笑みを浮かべて「ええ」と答えた。けれど相変わらず、顔色はよくならない。
「それとも……連中との件が引っ掛かってる、ってことなのかな?」
 リンゴーが言った途端、ヴィレンの顔がまた沈んだ。沈鬱な、とか、悲痛な、とか、近い意味合いの言葉は山ほどある。だが、どれもヴィレンの様子をひとことでは言い切れない。複雑な、そして具合の大変によろしくなさそうな表情だ。
 それも気にせずリクが、また大きめの声でしゃべり始めた。
「そうだ、いろいろ訊きたいことがあるんだよ! ええと、ええと……なにから訊けばいいんだ? あんたの体のことかな。それとも、連中……ヤクザのことかな。いや、あんたがどうやってあの連中のことを調べ上げたのか、いや、調べ上げた中身の方が先か?」
「……リク、声が大きいってば」
 リンゴーの言葉にリクは慌て、両手でぱっと自分の口を塞いだ。その仕種は、年齢よりずっと幼い。本人もそれに気づいたのだろう、決まり悪そうな顔になってすぐに手をおろした。

(続く)