かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#6】闇狩り−05

(承前)

 着ているシャツのデザインが古臭い。ネクタイを一応、している。そこいらにいくらでもいる、くたびれたサラリーマンという風情。
 だが、そのシャツは返り血にまみれ、べったりと肌に張りついていた。そして、同様に返り血でまだらに染まった顔には、異様にギラギラと光る双つの目が、間違いなく獣の色を宿して、開かれていた。
「……あなた、が?」
 由衣の口から最初に漏れたのは、そんな他愛のない言葉だった。だがそれが、今、由衣の抱いている一番大きな疑問でもあった。
「あなたがやったの? これを、あなたが?」
 中年男は、由衣に言われて首を傾げた。そして、これといった表情もなく、ただ周囲を、ぐるり、と見回した。
「んー、そうですね。わたしがやりました。だってこいつら、酷い連中なんですよ。だからこれは、まあ、言ってみれば天誅ですかね。うん、天誅
 言って男は顎を引いて上目遣いになり、にやーっと笑った。白い歯を剥き出して、実に嬉しそうに、満足げに、笑ったのだ。
「そう、それはもう酷い連中なんですよ。こいつらにわたし、どんなにかひどい目に遭わされたことか。
 一度だけです。一度だけなんですよ、こいつらの店に入ったのは。なのに、その一度でわたしが、いくら請求されたと思います? わたしの月給、一か月分より多い額だったんですよ。しかも、その場で払えなかったわたしから、担保だと言って運転免許証を取り上げましてね。それで調べたらしい連絡先に、何度も何度も電話してくるんです。最初に請求された額を払い終えても、何度も。会社を出るのを待ち構えられて、殴られたりもしました。
 でも神様は、そんなわたしを見捨てなかったんです。ある日、遣いを寄越してくださって、そしてわたしに力をくれたんです。こんな力を」
 男は、その外見からは想像もつかない身軽さで、ソファをひらりと飛び越えた。そして足元に転がっていた、まだどうにかひとのかたちを保っている骸の腕を片手で掴み、ひょいと持ち上げた。
 男の痩身に比べ、その骸はいかにもごつく、がっちりとしていた。三十代半ばほど、だろうか。鍛えられた印象のある、スーツ姿の男の骸だった。体重は、どう割り引いても八十キロ以上はありそうに見える。
 それを男は、軽々と持ち上げたのだ。
「ね? 昔のわたしは、こんな重いもの、全身を使っても持ち上げたりできませんでした」
 言って由衣を見た男は、その骸をぽいと投げ捨てた。
「こんなこともね、できるようになりました」
 男は、その骸を睨んだ。と、ふわり、と骸が浮き上がる。
 そして男は、再び由衣を見て、笑った。
「それに、こんなことも」
 言って、視線を骸に戻した途端に、その骸が、弾けた。
 まず右肩。さっきビルの入口で見たのと同じように、その右肩が、パン! と破裂し、腕が吹き飛んだ。次に左肩。その次は右脚の付け根、そして左脚の付け根。
 骸は四肢を失い、芋虫のようになって、それでもまだ宙に浮いている。
「素晴らしいでしょう!? こいつらに痛めつけられたわたしに、神様が力をくれたんですよ。なんて素晴らしい!!」
 男の声が上擦っていた。喉を震わせる昂揚が、苛立たしいビブラートをその声に加えていた。
 声だけでなく、男の体自体も小刻みに震えている。その声と、全身から滲み出る雰囲気は、あの波長──由衣たちがドーナツ屋からずっと追いかけてきた波長と、まったく同じ感触を備えていた。
「正義の味方! そう、わたしが、正義の味方なんです! 神様に選ばれ力を託された、現代のヒーロー! こんなことだって、できちゃう!!」
 宙に浮いたままの骸が、雑巾のように、ぐりぐりと捩じれ絞られ始めた。
 体内の圧力が高まったからなのか、四肢がついていた穴から、じくじくと濃い体液が溢れ出す。肉の奥で骨がひしゃげる音が、ごぎごぎごぎとくぐもって聞こえた。ぽしゅ、と情けない音がした時、まだ生前のいかつさを保っている骸の顔から眼球が飛び出し、分厚い絨毯の床にぽそりと落ちた。
「うは、うはは、うはー! 素晴らしい! すごいぞすごいぞ、なんて気分がいいんだ!」
 男は叫びながら、両の拳を握りしめ、足をばたばたと踏み鳴らしている。宙の骸が、ブチブチブチと大きな音をたてて、ついに捩じ切れた。途端に、千切れた場所──みぞおちのすぐ下辺り──から、どしゃっと赤黒く大きな塊がこぼれ、絨毯の床に落ちた。
「ね? ね? 見たでしょ? 見てくれたでしょう!? わたしの力なんです! わたしの! もう怖いものなんかないぞう、ざまぁみろ! ぎゃは! ぎゃはは! ぎゃははははは!!」
 小躍りしながら男は、腕をぶんぶん振り回した。それは、入口で見た若者の屍そっくりの動き方だった。違っていたのは、その腕の動きに合わせて、そこらじゅうに転がっている骸のかけらが浮き上がり、飛び、男と一緒に踊るように跳ね回って、室内に血飛沫の霧を舞わせたことだった。
(く……狂ってる……)
 由衣は伏せたままぶるぶる震えながら、男の踊りを眺めていた。
 この男が、どうやって悪魔の力を手に入れたかはわからない。けれどそれは、確かに男のものになっている。そして男は、迷うことなくそれを行使した。行使して、この地獄のような光景を生み出したのだ。
(だから……するの?)
 狩り、を。
 由衣の心の中に、その言葉が浮かんだ。
 無残な死に態を晒すことになった暴力団員たちに、まるで思い入れはない。ドラマなどで見るような非道なことを本当にしている者たちだとしたら、憐れみを抱く気にもなれない。
 けれども。
 この中年男のしていることは、何だ。
 なるほど、彼はひどい目に遭ったのかもしれない。理不尽なことをされたのかもしれない。でも、この男のしたことは、暴力団員に彼がされたことと、本質的に変わらないではないか。
 いや、いっそうたちが悪いかもしれない。
 暴力団員たちは、それでもまだ、ひとという器に収まっていた。できることは、ひとの範囲のうちに限られていた。
 でも、この男はもはや、ひとではない。
 ひとの頃の記憶は、あるのだろう。暴力団員たちにされたことを、はっきりと記憶しているのだろう。それが、この惨状をつくった理由なのだから。
 でも、ひとの気持ちが、この男にあるのだろうか。
 わずかでも、畏れる気持ちがあったのだろうか。
 わずかでも、省みる気持ちがあったのだろうか。
 それを失って、ひとを遙かに凌駕する力だけを振り回すこの男は、ひとと呼べるのか。
 今は、なるほど、世間からも疎んじられている集団を相手に、彼は力を使った。だが、だからといってそれを、彼自身が言ったように、正義の味方のおこないとしていいのだろうか。
 彼は、自分の恨みを晴らすためだけに、これだけの人々を殺した。壊した。屍体さえ、愉しみのために辱めた。正義の味方なんかじゃ、ない。私の家族を、私を殺した、あの悪魔と同じだ。いや、悪魔はそれでも、食事のために──自身が生きるために、殺したのだ。殺すために殺したこの男の方が、ずっと悪い。汚い。
 由衣はゆっくりと、立ち上がった。
 骸の破片とともに踊る男を、真っ直ぐに見据えていた。
 この男は、野放しにしておくべきじゃない。
 そして、それができるのは、この男と同等の力をもつであろう者……自分や美弥のような存在だけだ。
 悪魔の力をもつ女。
 魔女、と呼ぶのだろうか。いや、自分は女と呼べるほどおとなじゃない。ならば、魔少女?
「おやー?」
 男が、立ち上がった由衣に気づいた。
「わあ、可愛いなあ。顔だけ突き出してた時には、こんな可愛い女の子だとはわかりませんでしたよ。いいなあ、いいなあ。ねえキミ、わたしのカノジョになりなさいよ。正義の味方のカノジョに。いい目みさせてあげますよ」
 周囲に、骸の手足のバックダンサーたちを従えたまま、血まみれの男が言う。
「お断りします」
 由衣は、はっきりと言った。その声には、自分でも自身の声とは思えないほどに、凛と張った響きがあった。

(続く)