かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−03

 自身の骨格にもなったかつてのヒーローを、おとなでも納得できるものにする。
 それは、ヒーローを骨格として取り込んでしまった元こどもにとって、必須の作業なのだ。そういうかたちで自身のルーツを“正当化”しないと、今さら抜きようもないヒーロー製の骨格がぐずぐずになってしまい、自力で立っていられなくなる。文字通りの骨なしになってしまうのだ。
 日本でまずそれを具体化したのは、仮面ライダーだったと思う。

 そもそも仮面ライダーは、ダークヒーローだった。
 石森章太郎毎日放送講談社のマルチメディア戦略(などということばは当時は使われなかったが)により企画優先で生み出された仮面ライダーは、石森の意向を強く受けて、万全の正義を背負うことがなかった。そもそもが“悪”の組織ショッカーからの逃亡者だ。物理的には悪漢(怪人)なのである。
 それが自意識を残していたためにショッカーと対立するわけだが、では単純に仮面ライダー=本郷 猛が正義のひとかというと、そうでもないだろう。正直なところ、自身を異形に変えたショッカーへの私怨も相当に混ざっていたはずだ。その私怨の正当化のため、“自分のような犠牲者を増やさないように”という大義名分を無理やり引っ張り出したように思えなくもない。
 テレビ版ではアクション主体の怪奇系エンタテインメントの風合いが強かったが、石森による原作マンガでは石森の初期の意向に沿った、ダークな部分が強調されていた。ショッカー怪人を倒したあと、仮面で表情を見せない本郷が微妙なシンパシーを怪人に感じたりするような描写も多かったのだ。
 そもそもそういう作品であったから、重苦しい現実との結合にも向いていたのだろう。

 仮面ライダーをより現実的にする創作の嚆矢は、1992年のOVD『真・仮面ライダー 序章』だろう。1994年の『仮面ライダーJ』もその一環ととらえてよいと思う。
 テレビシリーズでは、1987年の『仮面ライダーBLACK』が、久々に石森本人の雑誌連載が並行したことも含めて、原点回帰かつアップデートの役割を担ったといえる。だがそれはあくまでもアップデートにとどまっていて、現実への引き寄せという印象ではなかった。

 一方、海外作品でもその頃、同様のことがおこなわれていたと思う。
 個人的にまずひっくり返ったのは、『ロボコップ RoboCop』(1987・米)だ。一見して「これ8マンじゃん!」と思った。まさしく鋼鉄の棺桶に詰め込まれた生身の魂。加速装置こそついていないが(てゆうか逆に動きはずいぶんトロい)、現職警官が殉死しその“記憶”が機械のからだに詰め込まれて現場へ戻る、というシチュエーションは『8マン』(平井和正桑田二郎 1963)以外のなにものでもない。
 まさかロボコップの制作陣が8マンを知っていたとは思わないが、要は1950〜60年代のSFでもてはやされたサイボーグをアップデートし、きちんと人間のドラマを持ち込んだらどうなるか、という点で「こどもの頃のヒーローを現実とカップリングさせる」という作品になっていたと思う。
 セカンドインパクト(w)はティム・バートンの『バットマン BATMAN』(1989・米)。バットマンもまた、スーパーマンなどに比べたら陰性のヒーローではあって、仮面ライダーに通じるものを備えていると思う。それがとことんシリアスにつくられたらこうなった、という作品だ。ジャック・ニコルスンのジョーカーは劇薬並みの魅力を備えていた。
 これもまた「こどもの頃のヒーローを現実とカップリングさせる」という流れだ。

 さて、では仮面ライダーバットマンと、ウルトラシリーズ
 その最大の違いはなにか。
 それは映像でない媒体による“原作”、あるいは具体的なモチーフの有無だ。

 ウルトラマンには原作といえるものが存在しない。別媒体での展開は、あくまでもウルトラありきのものであって、テレビシリーズのウルトラマンがオリジンとなっている。
 一方仮面ライダーには石森の解釈による原作があり、バットマンには一応DCの原作アメコミがある。映画やアニメはむしろ追従の位置だ。
 これ、実は大きな違いなのだ。
 なにが違うかといえば、媒体による余白の規模、とでもいえる部分だ。
 通常、人間は、いわゆる五感で外界を認識している。視・聴・嗅・味・触の五つの感覚だ。そしてそれらは、時間という要素による一方通行を強いられている。
 映像媒体は、そのうちの二種、視と聴へ、実体験に近い刺激を与える。また、時間による縛りも同様に備えている。
 一方、印刷媒体はどうかといえば、文字であれマンガであれ視覚にしか訴えるものをもたず、またそれは動かないから時間の制約を受けない。さらにこれが文字だった場合、映像そのものも読者が組み立てる必要がある。
 俗に「本は想像力を育てる」などというが、どちらかといえば創造力だ。文字や絵の情報から映像なり音声なりを読者が創造する。
 これら、読者が創造せざるを得ない部分がつまり、創作物の余白、だ。
 いわゆる映像作品には、この余白が少ない。もちろん皆無ではないが、映像作品の場合その余白はかなり明確に提起しないと視聴者に気づかれさえしない。
 スタジオ・ジブリの、というより宮崎 駿の作品はよくほめられるが、これはつまり宮崎 駿という人が問題提示の名人だからだ。アニメ映像での“間”や台詞の放ち方をよく知っていて、観客に、時間に流されず「ん?」と立ち止まる瞬間を与える巧者なのである。それでいて、流れに不自然さをつくらない。別に、当人が深い思惟をもっていて云々という話ではなく、余白の作り方が巧いのだ。あとは観客が勝手にいろいろやってくれる。

 そう、あとは観客が勝手にいろいろやる。
 そういう余白が、印刷媒体には多い。映像媒体には少ない。
 だから映像から始まっている創作物は、観客に立ち止まる間を与えない場合が多く、ことに“特撮を見せる”ことから始まったウルトラマンの場合は、それこそ「視聴者を立ち止まらせたら負け」というほどの勢いで余白を切り捨てる方向へつくられてきたのだ。
帰ってきたウルトラマン』以降に顕著な、割り切りに割り切ってとことん単純化した背景設定などもそういう類のものと見てよいと思う。そういう部分に深い設定を設けると、それは視聴者を立ち止まらせる要因になってしまう。そうせずに勢いを感じさせることが、昭和ウルトラマン中期以降の命題になっていたように俺には感じられる。
 そしてそれは、そのまま物語の浅さ、作品の軽さになってしまった。

 もちろん初期の三部作(Q、マン、セブン)は違うし、ジャック以降もたとえば上原正三シナリオには余白に相当するものが多くあった。(ただ上原シナリオのそれは余白というより、もっと剥き出しの問題提示だったが)
 けれど多くのウルトラは、ひたすらに“人間の確保”“怪獣退治”のカタルシスを追い、そのために余白を失くした。
 だから“余白を埋めることによって現実的にする”ことが難しい。
 個人的には天下の悪書だと思うが、『ウルトラマン研究序説』という本は、ある意味ではその余白に挑戦した果敢な試みではあった。問題は、ウルトラマンという対象への向かい方にあった。どうにもそれは、ウルトラマンを見下したアプローチだった。それは一種の自虐だったのかもしれないが、ウルトラを骨格にする者たちには愚弄以外のなにものでもなかった。
 序説と同じほどの時期に、平成ウルトラの制作にも参加する赤星政尚らがおこなったアプローチが『ウルトラマン99の謎』や『ウルトラマン仮面ライダー』(書籍の方)などだ。こちらはウルトラマン讃歌で、序説へのカウンターを意識したか、ひたすら愛に溢れていた。だがそれもそれで行き過ぎではあり、「いやそこはツッコミ入れるとこでしょう」という部分にも愛を以て接したがゆえ、浮いた部分もあった。
 いずれにせよ、序説も99謎も、ウルトラマン実体化への試みであったことには違いない。
 しかしどちらも評論的なものであり、ウルトラマンそのものではなかった。
 その実現を“我々”は、映画『ULTRAMAN』まで待たなければならなかったのだ。

 ごくごく個人的には、赤星らの仕事は実に偉大なものだったと思う。
 その後の平成ウルトラ実現には、赤星らの功績がおおいに影響したと思っている。彼らがあそこでウルトラ愛をぶちあげてくれなかったら、その後の展開は違っていたと思う。
 ありがとう赤星政尚。ありがとう池田憲章。ありがとう青柳宇井郎、高橋信之。

(続く)


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