かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−02

 とにかく『ウルトラマンコスモス』はひどい。わが家の四歳児も、初期の数話を見てけらけら笑い、「続けてコスモス見るか?」と訊ねたら「もういい」と言い切った。以後、勧めても見たがらない。「あれはおかしいからなー」と言って相手にしない。彼によれば、「えーすのほうがおもしろい」そうだ。そのエース(『ウルトラマンA』)にしても、勧めると「ぜろのほうがいい」と言う。
 なんでも、平成三部作の劇場映画に年少のファンが多く集まったことから、低年齢層に照準を合わせたつくりにしたのがコスモスらしい。四歳児に笑い飛ばされるってのは、では、いったいどれぐらいの低年齢層を狙ったものなのだろうな。

 コスモスで気分にささくれを感じながら、ようやくネクサスへ至った。
 正直、コスモスの“お勉強”がいい加減イヤになったから、まだコスモス全編を見通さないうちに順序を蹴飛ばしてネクサスへ進んだのだ。
 ついでに、どうせそれなら、という気分でマックスも同時進行で見ることにした。
 するとこれらが、なかなかよい。
 マックスにはダイナに通じるはじけっぷりがあり、主人公トウマ・カイト(演/青山草太 地味に芸達者で、第30話『勇気を胸に』での植物人間演技には背筋にクるものがある)の無鉄砲には毎回辟易するが、それもいっそ心地よい域に入っている。
 そしてネクサスはといえば、まさにこれ、暗黒のウルトラマン
 あり得ない暗さと重さが全編に満ちている。
 思うにこれは、誰もが見たかった、そして誰もが見たくなかった、ウルトラマンのリアルな姿なのではなかろうか。
 周囲に「あれはウルトラマンじゃなくてウルトラウマン」とか「ウルトラマン根暗す」と言ったりする人間がいたのだが、なるほど、と思った。

 ネクサスは、テレビシリーズと同時期に劇場公開されたという映画『ULTRAMAN』の後日譚になっている。だから可能なら、ULTRAMAN から観るのがよい気がする。実際初期には、映画公開のあとにテレビシリーズ開始、という順序を考えていたらしい。
 この『ULTRAMAN』、実は平成ウルトラシリーズより先に、個人的な興味によりチェックしていた。
“もし地球外からのなんらかの影響力が「現在」の日本に及ぼされたら”という物語を緻密な設定のもとに編んだ、本格派のSFといえる作品だった。
 さまざまな点について、現実的で細かい考証がなされている。ある意味、『シン・ゴジラ』と対で扱っていい作品だと思う。
 と書いて突如思ったが、『ULTRAMAN』と『シン・ゴジラ』、作品としての成立には十年以上の時間的な開きがあるものの、制作主幹の中に在る“なにか”を、夾雑物を極力排した状態で物語化・映像化したという点で、通じる部分がある。
 かみ砕いていえば、『ULTRAMAN』は小中和哉が“体験”したウルトラマンを作品として小中から分離したものであり、『シン・ゴジラ』は同様に庵野秀明が“体験”したゴジラを、同様に作品として庵野から分離したものなのだ。

 シリーズ化との関連も興味深い。
帰ってきたウルトラマン』以降のウルトラシリーズは、まずウルトラマンありきで、ウルトラマンという器になにを入れるかが問題となっていた。まあシリーズというものは、そもそもそういう性質のものではあるから、これは仕方ない話なのだが。
 同様にゴジラも『ゴジラの逆襲』の時点ですでにゴジラという器になにを入れるかというものになっている。
 が、『ULTRAMAN』と『シン・ゴジラ』は、どちらも“第一作め”なのだ。
ULTRAMAN』は『ウルトラマン』第一話のリアルなリメイクというかたちを採ってはいるものの、作品としては“前になし、あともなし”の独立した一作になっている。ネクサスという関連作品はあるが、ULTRAMAN とネクサスに直接の物語的連携はない。ネクサスは ULRAMAN の世界観や設定を流用したスピンアウト作といっていい。
シン・ゴジラ』も、前になし、あともなし、だ。え。あとはまだわからないだろう、って。ない。あのあとは、ない。少なくとも庵野は絶対にやらないし、庵野がやらなければそれは続編にはならない。なぜならあのゴジラは、庵野の一部だからだ。庵野側からなら一部だが、ゴジラ側からすれば、もう全部が庵野製。他の誰がやったところで、世界観を真似ようがデザインをいただこうが、それは続編にもスピンアウトにもならない。
ULTRAMAN』と『シン・ゴジラ』、それぞれが他ウルトラマンや旧ゴジラともっている接点は、銀色の異星人という条件、放射線の影響で現れた異形という条件だけ。そこへ、前例を敢えて排除しつつ、小中・庵野それぞれの“中身”を盛り込んだのが、両作といえる。

 この二作、それ以外にも関連性はあると思う。
 たとえば、ULTRAMAN のスピンアウト作たるネクサスに登場する狂言回し的な存在、松永要一郎(演/堀内正美 この前後にウルトラシリーズに客演多数。マックスの第24話『狙われない街』には研究員の松永要二郎として出演し、メイキングビデオで「兄がお世話になりました」とジョークをかましている)は、外見や印象において庵野新世紀エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウをモチーフにしていると見ていいだろう。
 松永、キャラ的にはゲンドウから狂気を除いて策謀家の部分を強調したようにも見える。ゲンドウから狂気を除いたらなにが残るって?……まあ、その。どうあれ、生身の堀内が演ずることでどうしても冷酷さはトレースしきれず、むしろ堀内の温かみが後半では強調される印象になるから、別物といえば別物なんだが。初期の正体不明加減とか陰鬱な迫力とかがね。そういう人物を物語に存在させること自体がね。
 一方、特撮好きの庵野がネクサスを観ていないわけがないので、ネクサスから『シン・ゴジラ』へ響いた部分もあるだろう。あるいはトップ屋の早船(演/松尾スズキ)はネクサスの根来甚蔵(演/大河内浩)辺りからインスパイアを受けたものかもしれない。
 じゃねえや。ネクサスじゃなく『ULTRAMAN』の方だ。
ULTRAMAN』の公開が2004年冬であり、エヴァは1995年から翌年にかけてのオンエア。十年弱の間があるものの、重さの演出において ULTRA のスタッフがエヴァの影響を受けていないはずがない。というより、ウルトラシリーズエヴァの合流点が ULTRA、という観方をしてよいと思う。

 で。
ULTRAMAN』という映画自体、ウルトラシリーズにおいては必須の展開あるいは経過点のひとつだったと俺は思っている。もちろんそれに連なるネクサスも含めての話だ。
 一般に“こども向け”とされるヒーロー譚の一部は、それを見ていたこどもたちの中でひとつの伝説となり、血や肉、というよりは骨格としてこどもたちの“からだ”を形成するに至る。その中で語られた正義や生き方が、それこそ土台になるのだ。
 だが、こどもはたいがい成長するもので、成長することはさまざまな知識を得ることでもある。するとやがて、かつてのヒーローの世界が矛盾にまみれたご都合主義の産物に思えてくる。
 ここでヒーローの否定に至ればごくふつうの“おとな”になるのだが、あいにくと人間はそこまで単純ではない。なんとかしてヒーローの正当化をはかろうとする一派も出てくる。もとのシチュエーションを殺さないまま、極力“現実”に“あり得る”ものにしてみよう、という試みだ。
 日本では、昭和四十年代の百花繚乱的ヒーロー乱立時代を経たこどもたちが、おとなになって覚えた“渇き”を満たす方向へ動いたように思える。
 日本で最も早かったのは、おそらく仮面ライダーシリーズだろう。

 うぅ。まだネクサスの話題にかかれないねえ……。

(続く)


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