かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

千樹 憐に注目せよ(『ウルトラマンネクサス』関連与太話)

 さて、そんな具合にウルトラシリーズ中におけるネクサスの意義を考えたわけだが。
 ネクサスという作品そのものにおいて、外せない要素はいくつかある。
 中でも俺が重要だと思うのは、デュナミストという設定であり、デュナミスト本人たちであり、取り分け千樹 憐というデュナミストの個性についてだ。
 全然ご存知ない方のために大雑把に紹介すれば、デュナミストというのはネクサスの物語中で「ウルトラマンになれるひと」のこと。和訳すると“適合者”となるらしい。

 ネクサス(と『ULTRAMAN』)における“ウルトラマン”というのは、どうも物理的なかたちを備えない、意志のあるエネルギーのようなもの、らしい。
 ほかの場所ではいざ知らず、とりあえず地球において彼(ら)は、単体で物理的に存在し活動することが困難であるようだ。だから彼(ら)は、地球の生物と融合し、実体化する。
 融合の際には、ちょっとした選択肢があるらしい。
 宿主になる生物の“意識”を尊重するか否か、だ。
 尊重しなかった場合には、宿主の意識は押し潰され消滅する。
 尊重した場合は逆に、“ウルトラマン”側の意識が捕捉不能になるようだ。

ULTRAMAN』では同様のエネルギー体がふたつ登場する。
 片方は宿主の意識を潰してザ・ワンと呼ばれる怪物となり、片方は宿主を尊重してザ・ネクスト=ウルトラマンになった。
 ネクサスに登場するウルトラマンは、ザ・ネクストと同一のものらしい。
 映画のシチュエーションのあとザ・ネクストは宿主から離れ、再び実体をもたない存在となったが、やがて次の宿主となる人物を見つけ、共生することになる。それがネクサスで最初のデュナミストとなる。
 そういう事情ゆえ、物理的な存在としてのウルトラマンは、宿主にもかなりの負担を強いるものらしい。いってみれば、エネルギー体の力で人間を極端に強化したものがウルトラマンという印象か。だからウルトラマンとして怪我をすれば人間としてのデュナミストも怪我をしているし、ウルトラマンが消耗すればデュナミストも消耗する。
 通常はエネルギー体が準備したらしいポッドのようなものの中でデュナミストの回復は加速され、常人を遥かに上回る速度で傷や疲労が癒えるようだ。
 それでも蓄積する消耗はデュナミストに多大な負担を強いるものか、デュナミストはやがてウルトラマンにはなれなくなる。
 するとエネルギー体は次の宿主へ移る。
 わりとタチが悪いw

 ネクサスの物語中では、映画の登場人物を含め、五人のデュナミストが登場する。
 映画の登場人物はネクサス中では資料として語られるだけだから、ネクサス内でウルトラマン化するのは四人。
 当然ながら土台になる人間のタイプ次第でウルトラマンの個性も変わるわけで、だからウルトラマンもさまざまなタイプが登場する。
 ネクサスでのウルトラマンの活躍は、だから、デュナミスト次第だ。

 俺がおおいに注目すべきと思うのは、ネクサス中での二代目デュナミスト、千樹 憐(せんじゅ れん)だ。
 初代デュナミストはミステリアスながらヒーロー然とした風来坊で、イメージ的には西部劇の流れ者ガンマンに近いものがある。迷いをもつヒーローではあるが、怪物退治については無条件で直進する辺りに、ヒーローらしさをしっかり備えている。
 一方、憐の怪物への対し方は、微妙にまっすぐとは言い難い。
 もちろん怪物に容赦はしない。まっすぐと言い難いというのは、「怪物を倒す内的な動機をしっかりもっている」ところだ。
 そしてその動機は、憐自身の屈折した過去と希望のない未来に由来している。
 大義名分に基づき“平和”を守るヒーローではなく、個人的動機で結果的に怪物を倒すことになる。それが千樹 憐というデュナミストなのだ。

 実は歴代のウルトラメン、怪獣退治の理由が希薄だった。
 彼らの動機は「人間を守る」という漠然としたもの。初代『ウルトラマン』の最終回で、ゾフィーが言っていた。「ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか」。要するにそれが動機だ。彼らは、地球人という漠然としたものを守るのだ。(初代の場合は一応ハヤタという個人が焦点になっているが、概念としては一地球人というレベルだ)
 なるほど確かに、人間を守ることに理由は要らないのかもしれない。むしろ具体的な理由がついた方が、こういう問題は面倒なのだ。
 だが憐には理由がある。
 憐のその理由が、後半のネクサスを牽引した。
 そして憐のその気持ちが、最後のデュナミストウルトラマン)を勝利へ導く鍵になる。

 では、憐の理由とはなんだったのか。
 憐は登場三回めに言う。
「昔読んだ本の中にね、変な男の話があって……。そいつの夢は、おおぜいのこどもたちが遊んでいるのを、ただ見守ってることなんだ。
 そンで、こどもが崖から落ちそうになったり、危ない目に遭いそうになったら、サッ! と飛んでいって、その子つかまえてあげるわけ。
 ……俺はね、そーいうのになろうと思ったわけよ」
『The Catcher in the Rye』だ。
 こんな個人的な願望でウルトラマンが戦うのなんて、見たことがない。
 だが、こんなに説得力のある理由をもつウルトラマンもまた、見たことがない――なかった。
 だが、ネクサスで、憐として、見た。
 初めて、明確な、等身大の理由を備えたウルトラマンを見た。
 そしてそれは、ひとりの青年のごく自然な人格からにじみ出たものだった。

 人格。そう、ウルトラメンに一番欠けていたのは、それだ。それがウルトラの最大の“余白”だった。
 ハヤタの人格はウルトラマンのものだったし、セブンはそもそもセブンだ。
 最終回、心を交わしあえたアンヌを打ち捨ててまでアマギの危機(と書いてピンチと読む)に駆けつけたセブンは、漠然とした地球人愛をちょっと越えて、友情を動機に動いていたともいえる。けれど愛を捨て命を捨てて友情に馳せるというのは、等身大とは言い難い。もちろんそこに学べたことは多かったが、それは仰ぎみる対象だった。
 ジャックは郷 秀樹の人格が全面的に反映した存在だったが、そもそも郷は自身の命を省みずこどもと犬を助けるような奴だ。価値判断の基準がふつうじゃない。北斗星児と南 夕子も同様。まったくもうどいつもこいつも見上げた根性のもち主で、凄すぎる(なのになぜ“ウルトラ五つの誓い”はあんなにチープなんだ)。
 平成シリーズに入って、ダイゴは自分がウルトラマンであることに悩んだ。だがそれは、なぜ自分がウルトラマンなのかの悩みであって、ウルトラマンとしてなにをすればよいかについてダイゴは迷わなかった。アスカ・シンも我夢も藤宮も、全員が根本的に“なんか違うやつ”だった。コスモスに至っては箸にも棒にもかからない知恵足らずだ。
 だから歴代のウルトラは、その不足、弱くやわらかな人格を、周囲の人間たちに委託することでドラマを組み立ててきた。
 初代のイデ隊員の苦悩。セブンのウルトラ警備隊の面々や、アオキ隊員(第30話『栄光は誰れのために』)、フクシンくん(第45話『円盤が来た』)。ジャックでは坂田兄妹絡みでジャック自身が苦悩しているが、最終回頃にはすっかり回復してしまった。郷、おまえの中でのアキちゃんはその程度のものだったのか。
 そしてウルトラメンは常に中心にあり、戦いそのものに文字通りの苦戦はしても、存在に、その実現に悩むことはない。あきれるほどまっすぐに、地球人類を守る。理由づけなんかしやしない。無条件だ。
 だが憐は、サリンジャーで人類を守る。自分の中に動機となるドラマを備えている。
 これなら俺にだってわかる。理解できる。
 驚いた。

 このサリンジャーの引用は、けれど、決して唐突ではなかった。
 その前二回で、憐と周囲のひとびと(ネクサスの本来の主人公・孤門一輝も含む)のやりとりの中で、憐という青年のありようが、実に巧みに、緻密に描かれていたからだ。
 どう見ても年上の孤門にタメ口をきいたり、「アイス」(クリーム)の発音がアクセントのないフラット系だったりという若者らしさ。(タメ口についてはまた別の事情も絡むとおぼしい)
 目前に現れた“ウルトラマン”に怖じることなく、むしろ挑戦的な態度でデュナミストとなることを受け入れる、どこか捨て鉢な態度。
 台詞まわしや、演じる内山眞人(名演!)の備える雰囲気、手持ちカメラの揺れる映像で追う憐の日常の自然さなども含め、憐という人物がしみこんできたところでのサリンジャーは、あっけにとられるほど自然で違和感がなかった。

 活写される“若者”憐の、シンプルでストレートな態度には、けれど、裏がある。
 それがわかってくるのはシリーズ終盤になるが、憐の厳しい現実が百八十度逆転して陽性の憐を実現していたとわかる時、憐の直球具合がいっそう愛しくなる。
 愛しいウルトラマンなんかいなかったと、その時にまた気づく。
 このたたみかけはものすごかった。
 上記の通り、セブンの友情やダイゴの逡巡は、確かにウルトラマンの中の人間性を感じさせてくれるものだったが、愛しさを感じる類のものではなかった。ウルトラマンに正味の血肉を与えたのは、憐が最初だと思う。
 そういう憐の位置づけが最初の三回でなされ、あとはその性格がずっと物語を牽引する。
 誰が書いたんだと思ったら、ああ、太田 愛でした……。
 現在、太田 愛相手の連敗記録、更新中。
 彼女のシナリオには本当に毎回ヤられている。

 そんな具合に練られ達成されたネクサスは、確かにウルトラの足を地につけた。
 その大きな転換点にあったのが、ウルトラに惹かれがちな少年(元少年を含む)の視点ではなく、少女――女性のものだったということには、少々びっくりする。
 一方で、むしろ少女だからこその距離感、簡単にウルトラマンに憧れられず、理解できた気分にもならないだろう距離感が、なんとかしてウルトラマンに近づこうとし、あるいは引き寄せた結果、おとなにも実感可能なウルトラマン像へ至ったのかもしれないとも思う。バカな坊主のイキオイだけじゃあ、ああはゆかなかったかも、というわけだ。
 どうあれ結果的にネクサスは錨として充分な質量を得た。
 ウルトラを磐石にしたのはネクサスで、その影の功労者は太田 愛であり、(これはあとから知ったことだが)彼女に憐の初期設定(というより描き方)を任せた長谷川圭一の慧眼であったのだと、俺は思っている。


※関連ログ※
『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−01 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−02 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−03 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−04 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
ウルトラ・ベスト・バウト――『ウルトラマンネクサス』第35話 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
相変わらず『ネクサス』礼賛 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
doa『英雄』が好きなわけ - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』