かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−04

 現実味を得たヒーロー譚は、それを骨格に成長したおとなの自我を支え、彼らに自信のようなものを与える効果をもつ。
 ウルトラやライダーが好きだった者は、成長の過程で一度は言われているはずだ「いい齢をして」と。
 それはたとえば、親がヒーロー譚からこどもを離れさせたくて言うことばだったり、ある程度成長してから同年配の者が嘲って言うことばだったりしただろう。そして言われた者は、それにどうしても引け目を感じてしまう。なぜならそれらヒーロー譚には、確かにこどもだましでチャチなものが多かったからだ。
 その点において第一世代のケツ辺りにいる俺などは、おおいに得をしている。なぜなら『ウルトラセブン』という異形の作品があったからだ。
 セブンでは、ほとんどのエピソードにおいて中途半端なおとな向け大衆小説なんぞよりよほど深い内容が提示されていた。だから、そういうエピソードを記憶してもいない同年代に「おまえ何を見てたの? その目、節穴? アタマの中身、からっぽ?」と逆襲を展開し、撃退することもできた。これはひとえにセブンという作品のおかげだ。平成ウルトラがセブンのリメイクや新作から始まったのも、決して偶然ではない。セブンだけがウルトラ巨大ヒーローシリーズの中で特殊だったのだ。
 だが、もし『ウルトラマンA』が自分の土台だったら、いじけるしかなかっただろう。
 そういうワリをくった世代が、ウルトラ全体にリアルな血肉を欲し、自分の立脚点を補強したいと考えるのは、当然のことだ。

 さて、ここまで書いてくれば、もうすっかり内容はわかったと思う。
ウルトラマンネクサス』は、ウルトラマンを現実に引き寄せる挑戦であり、ウルトラマンという“概念”の錨を底へ届かせるために必須の作品だったのだ。
 仮面ライダーが1990年代初頭にはその転換点へ達していたのに比べ、『ULTRAMAN』とネクサスは2004年。およそ十年、遅れている。
 もちろんそれ以前に、『ウルトラマンG』『ウルトラマンパワード』といった海外制作の作品もあったが、ことこの件に関してばかりは、国内で、かつ実写特撮でおこなわれないと意味がなかった。
 やや抽象的なものいいになってしまうが、これはいわば通過儀礼なのだ。
 通過儀礼を誰かに代理でやってもらっては意味がない。国産で、かつ同じ制作パターンでなければならない理由は、そういえば納得してもらえると思う。
 加えて、ウルトラマンという概念自体が、実は日本の文化状況を色濃く受け止めて成立している。他国の解釈が加わると、どうしてもそれはウルトラマンではなくなり、ただの宇宙人になってしまう。この辺は、ゴジラが海外作品ではどうしてもゴジラにならないのと同じだ。
 そういうものでは、ウルトラマンの現実化の役には立たない。

 仮面ライダーは平成に入ったあとはどんどん仮面ではなくなりライダーですらなくなってゆくが、そういう展開が可能になったのは、1990年代初頭にこの通過儀礼をクリアし、錨を底までしっかり届かせることができていたからだ。いい方を変えれば、そこで一旦“決算”をした。だから以後は、どう暴れても不安がない。
 だが、原作がないゆえになかなか“余白”を見出せず、またブームとの兼ね合いもあって時期を逸したウルトラは、結局ネクサスへ至るまでその機会を得られなかった。
 正直にいえばウルトラには、当時の類似の円谷作品群――『ミラーマン』『ジャンボーグA』『ファイヤーマン』等々――に足を引っ張られた部分もあったと思う。ぶっちゃけ、あれだけ量産されたヒーロー群に、ウルトラすら埋もれてしまった時期がある。
 だがウルトラは平成三部作で再びヒーローとしての地位を取り戻し、改めて知名度もあがった。そこでようやく、通過儀礼へ向かうための新しい足場ができたのだと思う。
 そして実現されたのが、『ウルトラマンネクサス』と『ULTRAMAN』だったというわけだ。

 だが。
 ちょっと時間がかかりすぎた。

 さまざまな事情で足踏みをせざるを得ずにいる間に世間はどんどん進んでいて、ガンダムは出てくるわエヴァヤシマ作戦だわプレイステーションバイオハザードだわで、生半可なリアリティでは追いつかなくなっていた。
 その結果ネクサスは、あそこまで作品として追い詰められなければならなくなった。
 また仮面ライダーは、当時隆盛へ向かっていたオリジナルビデオという媒体でなんとかできたが(当時のOVはかなりの影響力をもっていた)、2000年を越えた頃にはテレビシリーズでなければ一般的なアピールは難しい状況になっていた。こうなると、制作費のケタが違ってきてしまう。
 あれもこれもが逆風だ。
 でもそれは、実現された。
 そして、その効果は確かにあったと思う。
 仮面ライダーが90年代の足場固めで自由を得たように、ネクサス以降のウルトラは自由になった実感がある。
 ネクサスの後番組になる『ウルトラマンマックス』がすでに自由になっている。端的には、エレキングレッドキングピグモンといったかつての人気怪獣たちを、臆する必要なく本編に登場させられるようになったのは、ひとつにはネクサスという補強を得たおかげで過去をフラットに扱えるようになったからではないか。(もちろん金子修介監督の怪我の功名もあるのだろうが)
ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』辺りは相当に解放されているし、そこから派生的に新ウルトラマンが誕生するなどは、もう自由の極みという気がする。
 それもこれも、ネクサスでウルトラ世界の錨が底までどっしりとおろされたおかげだ。
 錨がしっかりしているから、あとはなにをやってもいいのである。

 ネクサスは暗いし、つらい。重い。
 最後に孤門がどんなに「あきらめるな!」と叫んでも、あきらめなかった先に、ドラマ内でどれだけの展開があるのかがわからない。期待できない、といってもいい。もはや平穏な日々は崩れ、かつてのような安穏とした生活はできない。それぐらいリアル。
 そこまで重くしなければならないほど、過去の作品群と現実の乖離、時代の要請というものは大きかったのだろう。錨をおろす作業が遅れてしまったゆえの宿命かもしれない。
 だが、それゆえにこそネクサスが降ろした錨の質量は大したもので、あれがあるからこそ今後もウルトラは大胆につくられるようになり得るのだと思う。
 ついでに俺には、孤門の「あきらめるな!」が、ウルトラを血肉とし骨格とし、ずっとひきずりながら、それでももうひとつ開き直れなかった者たちへのメッセージでもあるように思えてならない。
 俺は好きじゃないが、エースにだってタロウにだって、彼らをヒーローと崇める世代があるはずだ。だが、彼らがのちに自分の骨格を振り返った時、たとえメトロン星人Jr.の陰謀を語ってもトータス一家の悲劇を語っても、「いやー地球防衛軍が壊滅したからってパン屋がいきなりヒコーキ飛ばすとかってどうよ?」「ママがくれば骨折も治っちゃうもんなあ」と突っ込まれたら、返答に詰まる。正直それは、そういう番組を作った者たちの大罪だと思っている。長じてのちに胸を張って語れないヒーローなんか出すな。
 そういう制作者たちのしりぬぐいが、ネクサスによってなされた。
 ウルトラという世界観にリアリティを加えれば、ここまでのものがちゃんとできる。
 エースやタロウはヌルかったが、それだって突き詰めればこういうものにできるのを、敢えてソフトにしただけなのだ。そう思っておのれの骨格を信じることができるようになる。だから、あきらめるな!
 孤門のことばには、そんな意味も、俺は、感じる。
(余談のうちだが、ウルトラマンゼロの映画などでミラーナイトやジャンボットが活躍するのには、それらのヒーローを骨格にした者たちへの配慮もあるのではないかと思う)

 五十年に渡るウルトラの歴史の中で、まずやはり「テレビに怪獣特撮をもちこんだ」『ウルトラQ』はおおいに重要なコンテンツだ。「宇宙からきた巨大ヒーローが怪獣と戦う」という斬新極まりないアイディアを具現化した『ウルトラマン』も外せない。「特撮怪獣ドラマも“社会派”を実現できる」という証になった『ウルトラセブン』、ここまではまさに伝説の域に入るだろう。
 そして中を飛ばし「ウルトラの光はひとりひとりの胸に宿る」というイメージを、こどもだましとしてではなく見せてくれた平成三部作を経て、ネクサスの過剰なリアリティが、ウルトラをやっと本当の意味で“実現”した。
 他のどの作品を欠いても、初期三作、平成三部作、ネクサスに当然ここは『ULTRAMAN』もセットにした、計八作は欠かすわけにはゆかないと思う。
ウルトラマンネクサス』は、それだけの意義を内包した作品だったのだ。

(この項・了)


※関連ログ※
『ウルトラマンネクサス』を今さら考える−01 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』
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